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Yachting life
潮騒(SHIOSAI)

2002年秋KYCウィーク・ホワイトセールレガッタ優勝!
2003年秋KYCウィーク・ホワイトセールレガッタ3位。


平成13年5月19日進水
グループ所有
艇種:X-362 SPORT
TEAM「夢ひょうたん」で '98のハワイでの 
KENWOOD CUP 出場
これはその時の写真です。


'94 関空開港記念の上海ー大阪ヨットレース出場
SAIL OSAKA '97で香港〜大阪のヨットレースに出場

遭難者のでた過酷なレースでしたが、貴重な人生の回り道ができました。 たたみ掛けるような雨・風、満点の星空、まるでおとぎ話にでてくるような地平線から昇ってくる月など、あれほど自然を肌で感じ、一体感を得られたことはありませんでした。
BOAT NAME: SHIOSAI
BOAT MODEL: X-362 SPORT of Denmark
HOME PORT: SHIN-NISHINOMIYA YACHT HARBOR Pier 11-23W
CALL SIGN: JH3RJA
Total length: 11.000m - 36.1 ft.
'94













私のヨット歴は92年にはじまる。 それまでヨットに似たスポーツとしては、ウィンドサーフィンの経験があった。 ニイモノズキの私は、ウィンドサーフィンが流行りだしてほどない1980年頃、最も初期のウインドサーファー艇という、今から考えるととても大きなボードを買って当時はヘドロの海だった甲子園浜のあたりで遊んでいた。 セーリングクルーザーはスポーツ的な要素が少ないものと考えていた。 92年当時日赤病院に勤めていたが、その上司の先生にそそのかされてミニトンという全長6mほどの小型のセーリングクルーザーを購入した。 琵琶湖や姫路の木場・的形でレースを勤しんでいたが、まだまだ初心者であった。94年に31フィート(全長9m程度)のヨットに買い換えてからは外洋経験も豊富なセーラーになりたいと思っていた。 そこにウェーブスルーという淡輪ヨットハーバのチームが94年の関西空港開港記念環太平洋ヨットレース、上海ー大阪レグに出場するメンバーを募集しているという話を聞き、ボースン(技術的にも指導的役割をはたすヨットチームの番頭さんのような役割の人)を紹介してもらい、仲間にいれていただいた。レース艇を事前に上海まで運ばないとならない。 大阪をでて、四国沖を九州鹿児島まで航海し、後日を改めて、鹿児島から上海まで回航することとなった。 レースそのものより回航つまり、その前に上海まで、船を運ぶ船旅が思い出に残っている。 大阪から四国沖を土佐清水まで行き、土佐清水港に停泊、かつおのたたきを満喫し、港近くの銭湯で身体を流した。そして、宮崎県の油津、それから鹿児島へと船を回した。 その翌週に上海までの回航となった。上海で、レース中の食糧を買ったのだが、ニワトリを買いに連れて行ってもらった市場で、ニワトリをくださいというと、一羽まるごと生きているものを竹のかごから取り出して、首を切って失血死させお湯につけ羽をムシッテ渡された。値段は300円くらいだったとおもう。 首がついたニワトリをそのままヨットの冷蔵庫に入れていたが、みんなに気持ち悪がられた。 レース開始日、上海の外灘を帆船パレードして、レーススタート海域にいった。上海沖は泥のような汚染された海だった。このレースは総じて凪で、鹿児島沖種子島付近では風が止み船が全く動かない状況だったので、船上でまっぱだかになり海水で身体や頭を洗うことができた。総じて穏やかな天候で、時に全く風がなくなり、ヨットが全く進まず逆に潮に流されてイライラすることも多いレースだった。
'95アリランレ|ス釜山|福岡 95年阪神淡路大震災で、私は勤務し始めたばかりの、神戸市東灘区の病院が倒壊し転勤を余儀なくされた。その心の傷を癒すべく、ゴールデンウィークに行われるアリランレースにエントリーした。クルーには、いつものメンバーに加えて、環太平洋ヨットレースで同じチームだった方にもお願いしてなってもらった。レースに参加するために船をスタート地点であるプサンに持っていかないとならない。4月22日土曜日に姫路的形港一路福岡港まで行くべく出港した。春の嵐と表現された大時化の航海となった。メインセールを縮帆し、荒天下なんとか大分県姫島に到着した。姫島では回航に同行してくらた大分県出身の先輩の友達の家で、朝から夕方まで爆睡した。 その後、関門海峡をへて、玄界灘へと船を進ませようとしたが、暴風波浪警報が発令されたため、海上保安庁の停泊所へヨットを泊めさせてもらい門司で一泊した。大正時代を思わせる建築物がある魅力的な港だった。翌朝出港したが、向かい風強く、船が進まず、夜に福岡港沖航行中頭上を予約していた最終の大阪行きの飛行機が飛んで行くのを見て溜息をついた。結局夜中に福岡港に到着、朝一番の新幹線で帰阪したが、仕事には半時間ほど遅刻した。
アリランレースに先んじて、福岡ー対馬のレースが行われた。対馬についてからは上島と下島の間の、万関瀬戸を通り、浅茅湾に停泊した。1900年に人工的に作られた万関瀬戸は、幅がとてもせまく、岩が切り立っているようで、迫力があった。翌朝プサンに到着した。アリランレースでは、レース結果発表で、わがチームが優勝と発表された。 しかし、どう考えてもおかしいので、その旨伝えたところ計時ミスだったとのことで、結局フェアプレー賞なるものをいただいた。
'97
SAIL
大阪

第1レグ
・香港|沖縄
94年の関空開港記念環太平洋ヨットレースが終わってしばらくして、SAIL OSAKA‘97という大阪港築港100周年を記念して開催される国際帆船レースが催される事となり、それにむけて新しいチームを結成してレースに挑戦するという話が持ち上がった。 そして縁あって、新チームである夢ひょうたんのクルーにさせていただく事となった。 SAIL OSAKAは世界17カ国から48隻の帆船の参加を得て香港から沖縄、鹿児島を経て大阪までの約1,450海里(約2,700km)を競う小型ヨットだけでなく、あこがれや海星といった大型帆船も参加した帆船レースだった。 当時私は大阪の某病院で働いていたが、ヨットレース参加にあたり休暇届けを出したところ、院長の許可はいただいたのだが、副院長からお遊びでの長期休暇は認めないといわれ、結局97年3月下旬に退職してのレース参加となった。 退職に迷いはなかった。 どうせなら、3か月早く退職して、グアムから香港までの回航に参加したらよかったと今では少し後悔している。 この帆船レースの開催理念および成績評価のひとつに青少年育成というのが掲げられていたので、事前にセーリング理論や航海術、基本的な医学知識などの講習のほか、和歌山の下津港をホームポートにして実技での帆走訓練が重ねられた。 真冬の時化た海での訓練はきつかった。 下津では旅館喜久家でお世話になったが、就寝後、オーナーの大きないびきが急に30秒ほどピタッと止まるいわゆる呼吸停止をおこし、もう息を吹き返さないのではないかと、気になって寝むれなかったのが懐かしい。 オーナーのこの状態は医学的には睡眠時無呼吸症候群であった。
3月28日レース当日、香港島西部から九龍半島と香港島の間の海峡を帆船パレードして、タソン海峡からスタートした。スタートの時点で大型帆船の登り角度は90度にも達しておらず、詰め角の悪さにより、大型帆船には負けることはないと確信した。 スタート2日後の夕刻の船の後方から迫ってくるGALEの黒い不気味な雲、その夜、台湾南端バシー海峡では、雨風ともに厳しく、真夜中の白い作業灯に照らされた降りそそぐ雨と、波のしぶきを浴びてのセール交換の様子は、いまでもはっきりと脳裏に焼き付いている。 船は、6日後の4月2日午前9時58分那覇沖にゴールした。 レース艇を鹿児島錦江湾まで回航するクルーズ・イン・カンパニーまで11日間あったので、先島諸島へ一人旅することにした。那覇から宮古島まで夜行フェリーで行った。 宮古島では日本最南の緯度を意味する24ノースというダイブショップのツアーでスキューバダイビングを楽しんだ。夜には、ダイビングメンバーたちと島酒(泡盛)の入った大きなカメを囲んで円座になり、1つのコップを回しながら自己紹介や、その日のダイビングの話などを延々と続けた。自分の順番の時コップの中の泡盛は飲み干さなければならない。最初は水割りやオンザロックだったが、最後は氷も水もなくなりストレートで飲まなければならずきつかった。これは、「オトーリ」といわれ、ショップのマスター(この人もヨットマンで、環太平洋ヨットレースにも参加していた)によると宮古島の重要無形文化財であると言っていたが本当に文化財に指定されているかどうかは定かではない。 ウィキペディアで調べたところ琉球王府時代は穀物の生産量が少なく、泡盛は首里でのみ製造を許可されていたため、庶民には非常に貴重品であった。そのため、量の少ない泡盛を酒宴の参加者に均等に分けるためにオトーリが行われた。 そして近年になってから、泡盛の酒造メーカーが泡盛の消費量を向上させるための宣伝で居酒屋等でも行われるようになり全国に知れ渡った、と書いてあった。 宮古島では、平良港に程近い八城旅館というところに宿をとった。 当初、季節はずれのため閉めているといわれたが、特別に宿泊させてくれた。 旅館の女将から、無職の放浪者とでも思われたのか、「あんたもまだ若いんやからちゃんと仕事につかないといかんよ」とやさしい口調で説教された。 旅館の旦那が送迎用のバンを使ってもいいよといってくれた。 その車で宮古島を一人でドライブして観て回った。 夜には近くの居酒屋でヤシガニなるものを賞味したが、とてもまずかった。 宮古島から飛行機で石垣島へといき、小浜島、黒島、武富島、西表島、などへ船でわたった。 日本最南端の碑のある波照間島へは、飛行機でいった。 石垣島から夜行フェリーで、与那国島へと渡った。与那国からは飛行機で那覇に戻った。
'97
SAIL
大阪

第2レグ
・沖縄|鹿児島
クルーズ・イン・カンパニーまで11日間あったので、先島諸島へ一人旅することにした。那覇から宮古島まで夜行フェリーで行った。 宮古島では日本最南の緯度を意味する24ノースというダイブショップのツアーでスキューバダイビングを楽しんだ。夜には、ダイビングメンバーたちと島酒(泡盛)の入った大きなカメを囲んで円座になり、1つのコップを回しながら自己紹介や、その日のダイビングなどについての話などを延々と続けた。自分の順番の時コップの中の泡盛は飲み干さなければならない。最初は水割りやオンザロックだったが、最後は氷も水もなくなりストレートで飲まなければならずきつかった。これは、「オトーリ」といわれ、宮古島の重要無形文化財であるとショップのマスターは言っていたが本当かどうかは定かではない。ウィキペディアで調べたところ琉球王府時代、穀物の生産量が少なく、泡盛は首里でのみ製造を許可されていたため、庶民には非常に貴重品であった。そのため、量の少ない泡盛を酒宴の参加者に均等に分けるために行われた。 そして近年になってから、泡盛の酒造メーカーが、泡盛の消費量を向上させるための宣伝で、居酒屋等でも行われるようになり全国に知れ渡った、と書いてあった。 宮古島では、港に程近い八城旅館というところに宿をとった。 当初、季節はずれのため閉めているといわれたが、特別に宿泊させてくれた。 旅館の女将から、無職の放浪者とでも思われたのか、「あんたもまだ若いんやからちゃんと仕事につかないといかんよ」とやさしい口調で説教された。 旅館の旦那が送迎用のバンを使ってもいいよといってくれた。 その車で宮古島を一人でドライブして観て回った。 夜には近くの居酒屋でヤシガニなるものを賞味したが、とてもまずかった。 宮古島から飛行機で石垣島へといき、小浜島、黒島、武富島、西表島、などへ船でわたった。 日本最南端の碑のある波照間島へは、飛行機でいった。 石垣島から夜行フェリーで、与那国島へと渡った。与那国からは飛行機で那覇に戻った。
夢ひょうたんは那覇を4月13日に出発、鹿児島へと向かった。途中4月14日奄美大島に立ち寄った。 当初、加計呂麻島との大島海峡に錨泊する予定であったが、天候不良のため、名瀬港に停拍した。ミス奄美たちを囲んでの歓迎会も楽しかった。 16日に奄美大島を出港翌17日に鹿児島入港した。 
'97
SAIL
大阪

第3レグ
・鹿児島|大阪
4月22日鹿児島から大阪関西空港沖までの第2レグのレースがスタートした。 風向きはゴールするまでの2日間ほとんど変わらず北東の強い冷たい向かい風で、われわれを悩ませた。 4月23日20:11頃、高知県室戸岬沖から南南東およそ58km沖にて、エスケープ・ワンの船長の南波誠氏が落水というニュースが無線で入ってきた。 遭難者がでるほど時化ていた。 波ごとにバウが持ち上げられ、そのまま落下してハルが海にたたきつけられた。 落下時バーンというものすごい音がして、それに続いてマストがビビーンと振動する音が、波毎にほぼ規則正しく繰り返された。 さらにビュービューとうなる風の音がいっそう不安感を煽った。 船内に仮眠にはいっても、船が叩きつけられる大きな音とともに船底のアカ(ビルジウォーター)が跳ね上がり顔や体にふりかかり、とても仮眠できる状況ではなかった。 隣のバースから、「もう駄目だー」という呻き声も聞こえた。 この状況は24日の夜明けまで続いた。 結局メインセールは破れ、リグも一部破損した。 夜明けには蒲生田岬沖あたりを航行していたが、メンスルの破損状況がひどく、どんどん他の参加艇に抜かれていった。 荒天用セールであるトライスルを揚げてなんとか、夜遅くになってゴールすることができた。 このレースの後、陸揚げした時の検査で、キールを取り巻くように船底に環状の亀裂が入っていたそうで、あの荒天のままで、もう少しレースが長びいていたら、キールが脱落、沈没していたかもしれないと思うと、ゾーッとした。このレースは今までで最もきつかったレースとなっている。
'98
ハワイ
・ケンウッドカップ
ケンウッドカップはもともとパンナムクリッパーカップといわれパンアメリカン航空主催のレースであった。レベルの高いチームだけが出場できるとされていた。パンナムが、1991年に破産してから、日本のオーディオメーカーであるケンウッドがこれを引き継いだ。 しかし、バブルがはじけ、日本も不況の波が襲い掛かり結局2000年のケンウッドカップが最後となってしまった。 鑑みるとケンウッドカップは私のいままでのヨットライフの花形イベントだったともいえる、98年のハワイでのケンウッドカップに夢ひょうたんで参加させていただき、大変感謝している。 ハワイプリンスホテルワイキキのアラモアナ大通りをはさんだ向かいのコンドミニアムでの合宿、ワイキキ沖でのレースも充実していた。 外国の友達に、ケンウッドにでたといっただけで、それはすごい、プレステージャスなレースだろと、びっくりされてうれしかった。 ケンウッドのマウイ島カフルル湾経由のロングディスタンスレース中の夜半、久世さんが、コックピットに偶然飛び込んできた飛び魚をイギリス人のクルーに向かって冗談で放り投げた。 びっくりしたクルーはそのまま後ろに飛び退いたがその時、身体半分がライフラインを越えて落水しそうになり大慌てで引きずり戻した思い出がある。 このアクシデントがあってからは、ハーネスを強制的に装着してもらうようにした。
尾道
・因島クル|ジング
 
伊島
・日和佐
・牟岐大島クル|ジング
笠岡諸島
・芸予諸島
 クル|ジング
淡路島

仮屋
・翼港
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神戸ハ|バ|ランドクル|ジング
 
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留学おわりの深夜特急
留学おわりの深夜特急

トロントでは日本より1ヶ月くらい遅くに春がやってくる。 4月でもまだ肌寒いくらいだ。 

1991年の5月、ようやく春めいてきたトロントで、2年間の研究成果である“飛び石神経移植”の論文の草稿を書き上げた。(この論文は後にアメリカの有力医学研究雑誌 Brain Researchに掲載された。)

この草稿をチームのボスであるトロント大学 外科学 末梢神経研究班のスーザン・マッキノン教授(現在アメリカ・セントルイスのワシントン大学形成外科教授)や同僚たちと手直ししていた頃、僕はある計画を策略していた。 
留学後すぐに帰国するのはもったいない。 気の向くまま自由に色々な世界を肌で感じてみてみたいと、、、。 

そして僕は嘘をついた。 日本の教授には9月に帰国すると、ボスのスーザンには7月に帰国すると(すいません教授)。

 論文完成後の1991年の6月18日、新緑ですがすがしい季節のトロントを、僕は東方へ大西洋をこえてヨーロッパへむかうべくエールフランス(これが一番安かった)深夜特急便に乗り込んだ。

 行ったことのない、日本に帰ってからもなかなか行けそうもない国にいきたかった。

北欧編 北欧編

パリからそのままトランジットしてノルウエーのオスロへ飛んだ。

1991年6月18日、はじめて北欧の地を踏んだ。この街のメインストリートはカール・ヨハン通りである。 ここでは道端で似顔絵描きやギター片手に歌を歌う若者がいたりなかなかにぎやかな通りだった。 ここをそぞろ歩きしている途中で、たまたまみつけた旅行会社で11日後のベルゲンからイギリスのニューキャッスル行きの船の切符をかった。

ガイドブックに載っているミュージアムめぐりをすることにした。ノルウェーといえば画家のムンクが有名だ。ムンク美術館へ行くことにした。ムンク美術館では精神科の教科書の統合失調症(昔でいう精神分裂病)のところにものっていた“叫び”の絵をみることができた。頬に両手を当てて耳をふさいで口をあけているやつだ。 空の雲の色がオレンジや黄色、ブルー、黒でめまいのような曲線で描かれているのが印象的だった。

ノルウエー民族博物館のベンチで横たわっていると日本人らしきカップルのうちの男性がこちらを見ている。 目があうと“今日は”と挨拶してきた。こちらも挨拶をかえすと、女性のほうが知ってる人なの?と男性に聞いていた。 海外であう日本人のとくに若い女性は、こんなところにも日本人がいるの、いやね、という感じで無視したりする人が多いのでいやな気持ちになることが多いが、この男性は愛想がよかった。 もっと自然体で、外国人のみに対してだけでなく同胞に対しても気持ちのよい対応ができないものかなと思う。 

翌日の19日飛行機でノルウエーの北の町トロムソへ飛びそのまま、プロペラの小型機に乗り換えホニングスバーグに飛んだ。

眼下は残雪と黒い土地のまばらな大地だった。8人乗りぐらいの小さな飛行機だったが、乗客に東洋系のカップルがいた。英語で話しかけてみると日本人だった。 

ファスナーで有名な会社YKKのYさん夫婦といい、ブラジル支社の勤務だが、たまたま旅行に来ているという。このカップルとこの夜一緒にトナカイのステーキを食べた。

10年以上経った今でも便りをくださる。我々のここにきた目的はノールカップ(北岬)だ。 夕食を終えて、夜の11時ころのマイクロバスでノールカップまで行くことができた。夜といってもここは白夜の地、まるでお昼間の様だった。風の強い最北の崖の上に立って北極海をみているとヨットが一隻、走っていた。

ノールカップはヨーロッパ最北端の地として知られている。 本当はもう一つ北に岬があるらしいが、とりあえずここが最北端といわれ、観光のための北岬ホールというのもあり、ここに来た認定証も売っていた。ノルウエー語で書かれたものを買った。

バスでホニングスバーグから南下しノルウエーとフィンランドの国境の町カラショクへ、さらに国境を越え南東へフィンランドのイヴァロに着いた。

ここでバスの休憩の間にパブでビールを飲んでいると日本にいったことがあるというフィンランド人がやってきて、一緒に酒をのんだ。自称フィッシャーマンといっていたが、酒が好きらしく酔った顔でコニャック、コニャックといっていた。このあたりはラップ人の土地、ラップランドと呼ばれているが、人なつっこい人が多いようだ。ラップ人はエスキモーのようにアジア系の人といわれているが、酔ったフィッシャーマンは見ためはまるっきりロシアのプーチン大統領のようだった。

バスは北極圏を越えロヴァニエミに着いた。ここはサンタクロースのふるさとともいわれ、町の中心から8km北の北極圏上にはサンタクロース村があった。ここにムーミンの人形も置いてあったが、聞くところによるとムーミンはフィンランドの作家の作品との事だった。町の郊外の森を散策しているとトナカイがでてきた。手付かずの自然の残る町だった。

ヘルシンキ行きの夜行寝台特急に乗り込んだ。ガラガラですいており、洗面台もある部屋がまるごと占拠できて快適だった。早朝にヘルシンキ中央駅についた。駅から港までは歩いても2kmくらいでお店や並木道もあり、散歩にちょうどよい。ヘルシンキの港の前にはマーケット広場というのがあり、魚を売っていたりしてにぎやかだった。マーケット広場近くの郵便局で、いままで買ったものを日本に送った。その後、駅近くに戻りトルコ料理店で昼ごはんを注文して料理がくるのを待っていた時、パスポートがない事に気付いた。しまった、冷や汗がでてきた。落としたとしたら郵便局しかないと思い、何も食べずに代金を払って、郵便局まで走って戻った。祈るような気持ちだった。 郵便局の入り口に走りこむと、さっき郵便物を扱ってくれたお兄さんがパスポートを上にかざして、ここにあるよというかの様に振ってくれた。助かった、ここは正直者の多いいい国なのだと単純に思った。

ヘルシンキからスェーデンに行くのに豪華フェリーがあり、それにユーレイルパスが使えると聞いていたので、シリヤ・ラインというフェリーにのることにした。 噂どおりの豪華さで船の中は拭き抜けの、豪華なホテルのロビーの様になっており、まるで大阪ヒルトンプラザが船内にあるみたいだった。

船は一晩でストックホルムに着いた。ここではノーベル賞の授賞式がおこなわれる市庁舎やガムラ・スタンとよばれる旧市街の散策を楽しんだ。

郊外にはドロットニングホルム宮殿があり船にのって川下りして行った。さしずめ北欧のヴェルサイユ宮殿のようだった。

カナダ留学中に読んだ本、世界のミステリアス・プレイスに載っていたバルト海に浮かぶゴットランド島に行ってみようと思い立ち、6月24日船に乗りゴットランド島のヴィスビーという港についた。
ここはバラと廃墟の町といわれており、町は城壁に囲まれている。 島中にはたくさんの遺跡や廃墟があり、自転車をかりて廃墟めぐりをした。 羊の群がる草原や白い砂浜の海岸があり、自然を楽しみながら中世へのタイムスリップができた。

泊まるところをさがすためツーリストインフォメーションを探したが見当たらない。 町の人に聞くと親切に電話をかけて探してくれた。 B&B(ベッド&ブレックファースト)に泊まったが、そこの女主人は英語が話せず、東洋人は始めてということで少し怖がっている感じがした。
たまたま一緒に泊まっていたスウェーデン人のカップルが英語で、おばさんはコケージョン(白人)以外を見るのが初めてなので戸惑っているのよ。気を悪くしないでと言っていた。

翌朝日本から持ってきていた小さい扇子にスウェーデン語でありがとうと書いたものを机の上において、部屋を出て行った。 

ストックホルムに戻り、デンマークのコペンハーゲンへ向かった。ここは人魚の像で有名だが、小さい像で、ひょっとしたら札幌の時計台かブリュセルの小便小僧と同じくらい期待を裏切るものなのではないかと思った。

コペンハーゲンからオスロへ戻り、フロム経由ベルゲン行きの汽車に乗った。オスロからベルゲン行きはフロム線とよばれ、景観ルート、フィヨルドの旅が出来るので有名だ。 朝7時半に汽車はオスロを出発、ノルウエー最高地点のフィンセを抜けてすすんだ。 ここは冬の時期に映画スターウォーズ・帝国の逆襲が撮影されたところだそうだ。

汽車はすすみミュルダールを過ぎると、途中で線路のすぐ脇を豪快に流れ落ちる全長93mのショース滝があった。ここで写真撮影のために停車してくれるなどサービスがよかった。フロムには13時25分についた。ここで一旦下車し、フェリーに乗り換える。公共交通機関のフェリーだが、僕にとっては、都合のよいフィヨルドの観光船だ。複雑に入り組んだ地形に雪のまだらに残る山並みが重なり美しかった。

乗り合わせた日本のおばさんグループが、どこからきたの?と人懐こく話しかけてきて一緒に写真を撮ったりした。フェリーは14時20分にクドヴァングに着き、再び汽車でベルゲンへ向かった。

ベルゲンには夜19時25分についた。ベルゲンは石畳の町だ。駅から港へ歩いて行くと港に沿ってその北側にあるブリゲン通りというハンザ同盟時代の、奥行きのある三角屋根の建物が立ち並ぶ情緒のある通りがあった。コペンハーゲンの船員街ニューハウンにある家並みと似ていた。この奥にあるホテルに泊まることにした。一般に北欧では宿泊代は高いが快適だ。 

翌朝、港へいくと魚市場の露天商がならんでいた。蒸した海老を買って食べた。港から駅のほうへ5分ぐらい歩くと標高320mのフロイエン山にのぼるケーブルカーの駅があり、これに乗った。ベルゲンの街が一望でき、街の奥にはフィヨルドの海と陸地の入り組んだ地形が雄大に眺められた。ケーブルカーで下って街に降り、ちいさな雑貨屋で、トロールという鼻の高い老人の魔法使いのような魔除けの人形を6体も買って日本に送った。日本に帰った後、家に飾っていると母から“こんな気色の悪いものを置くな!”といわれた。ベルゲン郊外にはペールギュントの朝という曲で有名な作曲家グリーグがすんでいた家があった。

ベルゲンから北海を超えてイギリスに渡るべく船に乗り込んだ。 11日間の駆け足のスカンジナビアの旅は終わった。
イギリス編 イギリス編

船はベルゲンをでてフィヨルドの間を縫うように南下した。 陸地が見えなくなってしばらくすると、北海油田の鉄塔がみえた。そのまま一晩すぎて、船はイングランド北部のニューキャッスルに入港した。

貨物の積荷を扱うところの多そうな港だった。 駅へ行き、すぐにエディンバラ行きの汽車に乗った。エディンバラはイングランドとの国境を越えてすぐ北に位置するスコットランドの首都だ。ハリーポッターが執筆されたところとして有名だ。 駅に着くとバグパイプの音色が迎えてくれた。スカートをはいたおじさんがバグパイプを演奏していた。駅からすぐのHigh street Hostelという学生宿に泊まることにした。

ロビーに座っていると、イタリア人らしき女の子が小銭をくれといってきた。びっくりしたが思わず小銭を手渡した。この子は周りにいる人みんなに同じ事をいって、小銭をもらったり断られたりしていた。はっきりいって不愉快だった。ほしいのならその理由をまずいうべきであると思った。

翌日はStrathallan HouseというB&Bに宿を変えた。ここのおじさんは僕をみると日本人か?と聞いて、そうだと答えると、“バンザーイ”と叫んで歓迎してくれた。

街を散策することにした。カールトン・ヒルという小高い丘に登って、エディンバラの街を見下ろした。古い街並みに、ギリシャ風の建物などがみられしばらく見入ってしまった。エディンバラ城も小高い丘にたっており、ここからの眺めもすばらしかった。

エディンバラから20数キロはなれた郊外のリンリスゴーへいってみた。ここは16世紀にイングランド女王エリザベス1世とスコットランド女王メアリー・スチュワートの争いでメアリーが断頭台に送られヨーロッパ史を騒がせた、そのメアリー女王が生まれた宮殿がある。以前、小西章子の”華麗なる二人の女王の闘い“を読んでいたのでこの街にくることにしたのだった。このリンリスゴー宮殿でしばし、その本の内容を思い出し感傷にふけった。

エディンバラから汽車で南へヨークに行くことにした。ここはイギリス最大のゴシック建築のヨークミンスターがあり、この大聖堂の中から見る五人姉妹とよばれるステンドグラスはグリーンとグレーの色合いがすばらしかった。

街をそぞろ歩きをすると中世の香りが強く残るシャンブラスという通りがあり楽しめた。

博物館にはいったが中世のヨークの生活を再現しておりそれを自動カートで廻っていくもので、豚小屋がでてきて、臭い匂いがして、匂いまでも再現させているという面白いものだった。

ヨークからリーズを経由してハワースに向かった。ハワースはブロンテめぐりで有名なところだ。ブロンテとは小説「嵐が丘」のエミリー・ブロンテと「ジェーン・エア」の作者シャーロット・ブロンテ姉妹のことだ。

小城でできた雰囲気のあるユースホステルに泊まったが、そこで一緒になった英国人の男親と息子が二人、徒歩で1週間旅をしているのだと自慢していた。ハワースから片道6km往復12kmのところに「嵐が丘」のモデルとなった家の廃墟があるという。歩いて行くことにした。ちょっとしたハイキングだった。

草原に羊や牛をみながら約2時間でやっとトップ・ウイセンズというこの廃墟についた。あたりは霧がたちこめており、嵐が丘の世界のムード満点だった。ハワースへ帰る途中道がわからなくなって女の人に聞いた。女の人があなたの英語はとても上手だ、どこで習ったのかと聞いてきた。トロントでの2年半の留学が終わる頃には、あまりこのような事はいわれなくなっていたので、逆に英語が母国語でないのがすぐわかるのだなぁと少し残念だった。

ハワースからリバプールへ行くことにした。ビートルズ大好き少年だった僕は中学生の頃から一度ここには行ってみたいと思っていた。

Ticket to ride、マジカル・ヒストリー・ツァーという観光バスに乗り込んだ。ビートルズの曲Ticket to rideとアルバム、マジカル・ミステリー・ツァーにかけてつけられた名前のようだ。

バスはポール・マッカートニーやジョン・レノンの住んでいた家などを廻ってペニーレーンへ行きストロベリーフィールズ(もともと救世軍こどもの家)でいったん止まった。壁には日本語でいっぱい自分の名前なんかをいたずら書きしている。

だれかが日本人が書いたのねと英語で言っている。同胞としてとても恥ずかしかったし、腹立たしかった。2002年にリバプールの空港の名前がジョン・レノン空港になったというニュースがあった。結成後40年経った今聞いても新鮮で飽きないビートルズは偉大だ。
リバプールで少しでもその片鱗をたどれた僕は幸せな気持ちでウェールズの首都カーディフへ向かった。ここでは地名表記がウェールズ語と英語の両方で書いてあった。1900年の歴史のあるカーディフ城は内部の装飾がすばらしく、城からみる街の景色もすばらしかった。 カーフェリー城へいったが、水上にたつ城で見事だった。Caerphilly castleというスペルだがウェールズ語はそのまま英語読みしにくいので注意が必要だ。

イングランドのバースに向かった。バースはお風呂の名前の語源となったところだ。街にはいたるところにローマ時代のいにしえのお風呂の遺跡があり見ごたえがあった。

イングランドのいや大英帝国の首都ロンドンに行くことにした。ロンドンはミュージカルの都でもある。オペラ座の怪人をみたかったがチケットがとれないため開演前に劇場に行きダフ屋と交渉したが、こちらが言った値段(2倍の料金)は鼻であしらわれてしまった。あきらめてBuddyというショーをみた。最後にラ・バンバの曲でのりのりになるなかなか楽しいミュージカルだった。

ナショナル・ギャラリーではファン・アイクの”アルノルフィエ夫妻の肖像“という名画をみるのが目的で行った。岩波新書からでている高階秀爾の”名画を見る眼“の本で一番最初に解説されている名画だ。この本は美術館へいっても絵を漫然と眺めるだけだった僕にとって西洋絵画の理解のヒントを与えてくれ、目から鱗を落としてくれたお勧めの本だ、読まれていない方で、欧米の美術館へ行く予定の方は是非一度読まれることをお勧めします。

ロンドンは見所も多いが、すでに一度来たことがあったし、また来ることもあろうと思い1日でパリに飛んだ。パリも同様の理由と、日本に帰る飛行機がパリからでるため、再度立ち寄ることになるのでこの時は滞在しなかった。
マグレブ編 マグレブ編

パリからモロッコのマラケシュ行きの飛行機に乗った。

飛行機からはジブラルタル海峡がみえ、そして殺伐としたアフリカの大地がみえた。
マラケシュはカサブランカの南234kmにあるにぎやかな町だ。建物が赤い色をしているので赤い町といわれているという。

まず町の中心であるジャマ・エル・フナ広場へいってみた。この名前はアラビア語で“死人の集まり”という意味だそうで、かっては公開処刑場だったらしい。いまでは夜には大道芸人や屋台でにぎわう町の中心だ。

この広場から歩いて5分くらいのところに宿をとった。値段は交渉しなければならないとガイドブックに書いてあったので、相手の言い値の半分くらいを言うと、だめだという。 では要らないと言って出て行こうとすると、それでOKだという。部屋は一番屋上のベッドしかない質素な部屋だった。以後、値段交渉は買い物を含めすべてがこのような調子であった。

スーク(アラビア語でマーケットストリートのこと)のなかの薄暗い絨毯屋で、見るだけお願いといわれ、中に入ると絨毯を売りつけられたため、あきらめるだろうと思い、言い値の2割の値段を言うと、それでOKといわれてしまい、強引に絨毯を買わされる羽目になってしまった。 明るいところでみると合成繊維の安物だった。もって歩くと重いのですぐに日本に郵送した。

スークを歩いているとイスラムの小宮殿のようなところにでた。イスラムの宮殿は外観はさほどでもないが、中にはいると、天井や柱にコーランの文字のようなレリーフが刻みこんであり、美しく見事だ。ムーア式の中庭もすばらしい。キリスト教の大聖堂などが威圧的なすごい外観を持っているのと比較すると興味深い。

夜、広場へいってみた。 昼間とは違い舞台ができていてそこで歌や踊りがおこなわれ、まわりには、屋台がでていた。マトンの串焼きを食べたが、20円くらいだった。

屋台の隣でこどもが大道芸ボクシングの試合をしていたが、パンチがあたるとだんだんエスカレートしてきて本当の喧嘩になってしまっていた。
蛇使いの写真を取らせてくれというとお金をとられ、ビデオをとりだすともっと金を払えといわれた。
 
宿に帰って寝ようとしたが暑くて寝れない。 コップに水を汲んで部屋の壁にまいてみたが、効果がなかった。 ベッドに直接水をまいて濡らすなどしているうちにやっと寝れた。 かと思いきや真夜中にコーランのお祈りのようなものが、屋上にあった僕の泊まっている部屋の横に設置してある拡声器から大きな音でながされてきた。 びっくりして飛び起きたが、こぶしの効いた祈りの音はしばらく続いて、なかなか寝付かれなかった。
幼少の頃ラジオでながれていたカスバの女という楽曲が心に浮かんできた。ここは地の果てアルジェリア、、とかいうやつだ。大アトラス山脈を越えてカスバ街道へ行ってみようと思いたった。

マラケシュから南東のワルザザード行きのバスに乗った。 岩だらけの曲がりくねった道をいく途中でロバを連れた子供や、羊の頭を店先に並べて売っていたりする。山脈をこえると埃っぽい砂の世界になった。ワルザザートまでは8時間ほどかかり、着いたときはもう夕暮れだった。ここはかっては外人部隊が駐屯していたそうである。町からあるいて2kmくらいのところにグラウイのカスバがあった。カスバとは城塞に囲まれた居住区域で四角い積み木を重ねたような形でそこにイスラムチックな模様のまどがあったりする建物が集まってる。この建造物が、夕焼けと相まって赤く染まり哀愁を感じさせた。

夜、クスクスという料理を食べた。粗びきの小麦粉を蒸し、野菜とマトンを煮込んだものがかかっていた。 おいしいとは思わなかったが腹のたしにはなった。

カスバ街道を奥に行くべく、バスの運転手にエルラシディア?と単語のみでたずねるとうなずいている。 エルラシディア行きのバスに乗ったつもりだったが、途中でバスは名も知らぬ街で止まった。途方にくれて、バスの運転手にいったいどうなっているんだと問い詰めたが英語がはなせない。小さい女の子が“私のお姉さんは、英語が話せるので助けてあげる”というジェスチャーでお姉さんを連れてきて通訳をしてくれた。今日の予定はここまでで、明日そこ行きのバスがでるという。あきらめてその日はその名前もわからない街に泊まった。

翌日、エルラシディア行きのバスにのり、さらに奥地のエルフードに行った。ここはサハラ砂漠の入り口といわれている。エルフードの宿のお兄ちゃんに砂漠まで乗せて行ってほしいと交渉した。カナダで買った日本製の安い電卓と交換でどうかと話を持ちかけたが、電卓は欲しいがダメだという。結局3千円くらいで話はついた。
早朝の4時前くらいに街をでてリッサニという街をへてサハラの砂漠の入り口につき、ここの砂地のうえに毛布をひき仮眠をとった。日が昇ってくると目の前は一面砂漠だった。なにもない単純に見渡す限りの砂の海だった。僕以外の観光客は白人の女の子二人だけで、その二人はらくだにのって散歩していた。

またバスにのり一路北へフェズに向かった。バスのなかは埃っぽくてエアコンなどもちろんなく暑い。長時間乗っていても汗がでるので、おしっこにいきたくならない。モロッコは食事はひどいがオレンジはおいしい。このオレンジとミネラルウォーターが長時間のバスのなかでは僕の友達だ。バスが止まると子供たちが僕をみつけて寄ってきて空のペットボトルをくれという。あげると、それを井戸にもっていって水をいれ他の乗客に売っている。ミネラルウォーターを買うときはちゃんと封がしてあるやつを買わないと危険だ。

フェズに着いた。ここは複雑なメディナ(旧市街)で有名だ。メディナは道が狭く、左右に入り組み上ったり下りたりしていた。その道をロバが荷を背に負っていきかう。エキゾチックな、アラビアンナイトを髣髴とさせる光景だった。
モロッコに来て思うのは自称ガイドがあまりにも多い。 このメディナでも、歩いていると横にぴったりついてきて頼みもしないのに建物の説明を始める。ガイドはいらないといってもノープロブレムあなたはわたしの友達だとかいって勝手にしゃべっている。 独りにしていてくれといっても聞かない。小一時間してガイド料をくれといいだす。10分ほど無視し続けて、その彼がやっと去ったかと思うと、また違うのが来るといった、まるで東南アジアの屋台での食事の時にたかってくるうるさい蝿のような案配だ。

フェズをでてメクネムにむかった。メクネムは緑のタイルとイスラムチックな彫刻が施されたマンスール門という美しい大きなゲートがあった。

メクネムで鳩の高級なお菓子料理であるパスティラというのを食べたが値段のわりにいまいちだった。

メクネムの近郊にムーレイ・イドリスという昔はイスラム教徒以外は入れなかった村があり、そこを訪れた。白い壁の家が、山の傾斜にたつきれいな村だった。

このすぐ近くにローマ時代の遺跡ヴォリビリスがあった。

メクネスからモロッコの首都ラバトへいき、ラバトから電車に乗ってカサブランカに向かった。ハンフリー・ボガートの映画の影響で是非訪れたいと以前から思っていたのだが、ただの大きな町だった。 ユースホステルに泊まった。街を散策していると、ど派手な服を着た水売りのおじさんがいたので写真をとると、寄ってきて写真代をはらえといわれお金を払わされた。 あまりに暑いので、少し高級そうなホテルのロビーで涼んでいると、門番にここに泊まっていないなら出て行けといわれてしまった。 それほど汚い格好をしていたのかもしれない。 

アルジェリアへいくにはビザなど大変そうなので、飛行機でチュニジアに行くことにした。 チュニスでもやはり、メディナの散策が楽しかった。メディナの中のスークは薄暗くロウソクが明かりだったりした。チュニスではシーフードのクスクスを食べたがこれは美味しかった。

チュニスの北にカルタゴという町があり、ここに2200年前の古代貿易大国カルタゴの遺跡がある。チュニスから電車でカルタゴへ行った。

カルタゴは紀元前6世紀から紀元前2世紀まで栄えた貿易国でありローマによりポエニ戦争で紀元前146年に滅ぼされた。カルタゴは現在の不況で傾きつつある日本にたとえられたりするので名前を聞かれたことがあるかもしれない。現在残っている遺跡はカルタゴ滅亡後入植したローマ人のものである。 空の青さと地中海の青さがまぶしかった。 池のような旧軍港を歩いていると、裸で水浴びしていた子供たちが僕をみつけてムッシュー、ムッシューといってよってきた。東洋人が珍しいのかなと思っていると、何かくれとの事だった。チュニスに戻り、シシリア島行きの船の切符をかった。
南イタリア編 南イタリア編

シシリア島の西の端のトラーパニに船はついた。

イタリアへの入国検査がきびしいのかチュニジア人の列がなかなか進まない。1時間ほどしてやっと僕の番になったが日本人だとわかると一目であっさり通してくれた。 イタリアでもチュニジア人などの違法労働入国者に気を遣っている様だった。

島に降り立つころにはすっかり夜もふけており、食事と宿が心配だった。街角にいた警官に泊まるところはないか?と尋ねると、はるばる日本から来たのかといって親切にホテルまで案内してくれた。食事をするまねを手ですると、オオ、マンジャーレといってレストランも紹介してくれた。ありがたかった。

翌日パレルモへバスでいった。ここで日本からフランスへ留学している女子学生とあった。一日一緒にパレルモを見て回ることにした。

パレルモはイタリアの中ではもっともイスラムの匂いを感じさせる町だ。修道院の回廊にはアラブ風の噴水があったりする。女子学生とは一日一緒に食事したり観光したりしたが、ロマンスはうまれなかった。いまは名前も忘れてしまったが、写真だけが残っている。

パレルモからナポリへ夜行列車にのった。1991年の7月18日のことだ。3段ベッドの一番上だったが、暑くてなかなか寝れなかった。下の段の太ったイタリアのおばさんも暑そうにうめいて、窓をあけたりしていた。

早朝ナポリへついて、そのまま朝一番のカプリ島行きの船に乗った。島についてすぐ青の洞窟へいく小船に乗った。
かがんでやっと小船が一隻通れるくらいの岩の入り口から洞窟にはいった。なかは真っ暗で、何が青の洞窟なのかと思いきや、船頭が後ろをみろと顔で合図する。 後ろをみると、くぐってきた小さな岩の入り口から光が漏れ、洞窟のみずがエメラルドブルーに輝いているではないか! あまりの神秘的な色・光景に言葉を失った。筆舌に尽くしがたいとはこのことをいうのだ。洞窟の中で海の水を手ですくってみると、零れ落ちたしずくが宝石のようにきらきらと輝いてみえた。

カプリ島から船でソレントへ渡り、そのまま古代の夢・2000年間取り残された町ポンペイへ向かった。
ここは1900年前にヴェスヴィオ山の大噴火により一瞬にしてに死の灰に閉じ込められてしまった町だ。娼婦の家があったり、居酒屋があったり、保存状態もきわめて良好で、当時の生活が興味深く見て取れた。いままでは2000年も前の生活なんて電気もなくて暗いものを想像していたが、ここへきて考え方が変わった。災害が訪れるまでのゆたかで、幸せな生活が想像された。

ポンペイの近くに、やはりこの噴火で埋もれた港町、エルコラーノがあった。ポンペイに比べると下町風の家並みで、保存状態がよかった。

“ナポリを見て死ね”といわれるティレニア海の港町ナポリに着いた。駅近くの安宿を探し一晩泊めて欲しいというと、カプリ島や、ポンペイなどみるところがいっぱいあるのに、もっと泊まっていけという。もう全部見たというと、インポシーブレといって信じていなかった。

ナポリの町では卵城や国立美術館を見に行った。美術館には高校の教科書でみたアレキサンダー大王の東方遠征のタイル画があり、見覚えのあるものを直に見れたことが妙に嬉しかった。 美術館をでてしばらく商店街をぶらぶらしていると、突然おなかが痛くなって便意を催してきた。旅にでていてやっかいなのはトイレだ。トイレを貸してくれとイタリア語でなんと言うのだろうかと思いながら、あぶら汗をかいて、美術館へ舞い戻った。受付の人にトイレといっておなかをおさえると、笑って場所を教えてくれた。助かった。

翌日午前中ナポリの町を散歩してから電車で長靴の形をしたイタリア半島の反対側にあるアドリア海の港町バーリへ向かった。バーリでアドリア海を渡って、ドブロブニク行きのフェリーの切符を買った。船出を待つ間、食べ物やさんの店先に、さかなやたこやいかや海老やムール貝をオリーブオイルであえたトレーがたくさん並んでいるのをみると食べたくてたまらなくなり、店先に座って食べることにした。座って食べているとシルクハットをかぶった黒い服を着た人がよってきて、お金とキリストの像の写真をみせて何か寄付しろといっているらしかった。寄付するほどの現金を持っていなかったので、ノーといったがひつこくお金を見せて、これだけ寄付しろといっているようだ。追い払うために、そのお金、僕にくれるのグラッチエ、グラッチエといって、お金を手に取ろうとすると、鼻をフンフンとならして憤慨したように去っていった。

フェリーは夜、アドリア海の真珠といわれる旧ユーゴスラビアのドブロブニクにむけて出航した。
バルカン半島編 バルカン半島編

ドブロブニクはクロアチア南部のアドリア海に面する美しい港町だ。かってはベネツィアと肩を並べる商業中心の都市国家だったらしい。1991年7月21日ここに降り立った。

当時ユーゴスラビアは崩壊しておらず、1ヶ月前から始まったボスニア紛争のせいで、観光客はほとんどおらず船から降り立つと宿の客引きのおばさんが群がってきた。

船は新市街の港についたのでこの近くに宿をとり、2kmはなれた旧市街へ歩いていった。旧市街は銃眼つきの厚く高い城壁に囲まれており、城壁のなかは石畳のみちと赤い屋根と白い壁の家が立ち並び中世そのままの姿を残している。120円払えば城壁に登れた。城壁は幅2m弱の遊歩道になっており階段も多い。 民家の真横を通ったりして、家の中まで見えたりする。真っ青な海に赤い屋根の町並みのコントラスト、アドリア海の真珠と謳われる理由がはっきりわかった。すばらしい街だ。あとで知ったことだが、ここは宮崎 駿の漫画映画の「魔女の宅急便」のモデルとなった街だそうだ。

城壁の中はひと気がなく閑散としていた。ユーゴスラビア屈指のリゾート地なので本来は観光客であふれているはずだったが、戦争の影響で渡航自粛令がでているのだろう。紛争の始まった6月半ばは、すでに旅行中で事情に疎かったのでやって来たが、今考えればかなり危なかったのではないかと思う。

帰国してドブロブニクも砲撃を受けたと聞いて、あぁ、あの美しい世界の宝物が、、、と心が痛んだ。 

安宿一人旅も1ヶ月を超えて疲れていたので、このすばらしい街に2〜3日滞在しようと思った。

ドブロブニクでのしばしの休養後、ユーゴスラビア南部マケドニアのスコピエ行きのバスに乗った。紛争のせいか乗客の顔は険しかった。スコピエはSkopjeと綴られる。トロントに住んでいたとき、ワールドフェスタといって、トロントにいながら世界を巡ろうというトロント市の企画があった。マケドニア館というのもあり、そこへ行った後、研究室の同僚ピーターエヴァンスの祖先がマケドニアからの移民だと聞いていたので、マケドニア館へ行ってきたよ、スコプジェが首都らしいねというと、それはスコピエと読むのだといわれたので、覚えていた。

マケドニアはこの年、紛争後ユーゴスラビアから分離独立しマケドニア共和国となった。マケドニアはイスラム教の信者が多く尖塔のあるイスラムチックな街並みが印象的だった。

スコピエから電車に乗って、ギリシャ北部のテッサロニキに向かった。テッサロニキはアテネにつぐギリシャ第二の都市だ。駅についたときは夜もだいぶ更けていた。ギリシャのお金ドラクマを持っていなかったので、飲み物も買えなかった。宿の客引きについていき、宿で両替してくれるなら泊まってあげるというとOKだというので泊まることにした。
ドブロブニクから1日でここまで来たので、疲れておりバスでの汗まみれ埃まみれだったので宿で浴びたシャワーの爽快感は格別だった。スコピエの町の当時社会主義の少し暗い雰囲気に比べ、ここは資本主義の華やかさがあり、なぜかほっとした。

テッサロニキをでてバスでメテオラに行くことにした。

メテオラは、きのこのエリンギの様な形の大きな岩山がいくつも並び、そのうえに修道院が立っている奇観で、現在では世界遺産にもなっているところだ。カランバカという村にバスは着いた。ここがメテオラの観光拠点となるところだ。

チェンジマネーといっておっさんが近寄ってきた。グッドレートといってお金を勘定させる。なるほどかなりいいレートだなと思って50米ドル交換したが、手にとるとくず銭紙幣に変わっている。まるでマジックショーのようだ。しまったと思ったが、あっという間に行方をくらましていた。しばらく、くやしくて、くやしくてたまらなかった。1時間ほどおっさんを探したが現れない。 あきらめてメテオラに観光に行くことにした。

奇妙な景観だ。こんな岩山のうえに、よくもまあ修道院が建てれたものだと感心した。建築材を運ぶのがさぞかし大変だったろう。しかもこの奇妙な岩山と修道院が複数にある。1つ1つが結構はなれているので全部みるのは大変だし、ひとつずつ階段を頂上まで登らないとならない。暑い中、てくてく歩いていると、色の黒い東洋人とすれ違った。カンボジアから来ているといっていた。全部みるつもりかい?と聞いてきた。ノーと答えた。

カランバカをでてバスで南下し荒れた殺伐とした大地をすぎると緑の濃い山がちな風景になり中部ギリシャにあるデルフィの遺跡に着いた。古代ギリシャ人は地球は円盤でその中心がデルフィであると信じていたところである。大地のへそともいわれていたという。その時代、ここには予言者がいて、神託していたといわれている。 戦争を始めるとき指導者が神託を仰ぐと、栄光の勝利がみえるといい、負けるとその予言は相手のことを予言したのだなどと、どちらとも取れるいい加減なことを言っていたらしい。デルフィはその神託の場所として崇められていたとされている。

遺跡の入り口を探して迷っていたが、気がつくと既に遺跡のフェンスの中に入っていた。入場料がういた。ここの遺跡のアポロンの神殿跡の列柱や劇場跡は世界史の教科書にも写真の載っていた見事なものだった。

ここを出て170km南のアテネにむかった。アテネには1986年の12月にスイスのダボスで開催されたAOのワークショップに山田先生、山下先生と一緒に参加した帰りに訪れた場所だ。そのときは空港を出るやいなやタクシーの客引きにサムソナイトをもっていかれ、ぼられた苦い記憶がある。2回目だが定番のパルテノン神殿や国立考古学博物館でポセイドンの小さい像(身長50cmくらい)をみてまわった。

入り組んだ小道の雰囲気のあるプラカ地区を歩いていると、ギリシャ人のおっさんがチェンジマネーといって寄ってきた。レートを聞くとかなり良い。カランバカでの事件と同じ手口のようだ。OKといって、相手の提示したお金を握りしめて取られないようにすると、相手がだんだん焦ってきて、そのお金を取り戻そうとした。おまえが両替してくれといったので、両替してやるんじゃないかといって、相手のギリシャの紙幣ドラクマを握り締めながら米ドルを渡そうとすると、ノーチェンジマネーといってきた。 ドラクマを返してやると逃げていった。そのおっさんはその後、シンタグマ広場でも姿をみかけたが、僕の姿をみると逃げていった。闇両替はやはり、リスキーだと肝に銘じた。

プラカ地区で晩御飯をとることにした。こちらのレストランはタベルナというらしい。日本語で考えると面白い名前だ。サラダにはオリーブオイルとヤギのチーズとレモン汁がかけてあった。スブラキという鉄串にさしたBBQのようなものを食べた。味は大味でさほどうまくはなかった。ウゾという水をいれると白濁する強い酒をなめたが、きつくて飲めなかった。

シンタグマ広場近くのトラベルエージェンシーでクレタ島発ミコノス島行きと、ミコノス島発ロードス島行きの飛行機のチケットを予約した。
 
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エ|ゲ海編 エーゲ海編

エーゲ海を渡ってクレタ島へ行くため、電車にのりアテネの南の港町ピレウスに行った。

ピレウスはエーゲ海の色々な島に行く船着場があり、人でごったがえっていた。この喧騒が船旅をするのだという気持ちを高騰させた。

キャビンの料金は高かったので甲板に乗るチケットを買って船に乗り込んだ。船の波を切る音を聞きながら甲板のベンチで寝た。

朝起きるとクレタ島がランドフォールでき、船はイラクリオンに入港した。

クレタ島は東西に細長くエーゲ海では一番大きな島だ。ヨーロピアンの間では、ここは美しい渓谷など自然に富み、トレッキングの場所として人気があるそうだ。日本人にとってはやはりクレタ島といえば、ミノス王の王宮遺跡であるクノッソス宮殿を思い浮かべる人が多いと思う。

ギリシャ神話ではミノス王が一度入ったら二度と出てこれない迷宮をたて、そのなかに頭は牛、身体はひとの怪獣ミノタウロスを閉じ込めていたと伝えられている。

宮殿跡はかなり広く、赤い柱、色鮮やかなイルカやグリフィンと呼ばれる頭は鳥で、身体はライオンの空想の獣の壁画が見事だった。4階建てになっている部分をあり、部屋の数は1200以上だと考えられており、まさに迷宮だ。水洗トイレ、排水溝や上水道の管もあり高度な文明であったことが想像される。

驚くことにこのクレタ文明は紀元前6000年前にさかのぼるといわれている。保存状態も良好なこの遺跡で悠久の時の流れを感じずにはいられなかった。トロイの木馬の神話を信じてトロイ遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンの古代への情熱の気持ちが理解できる気がした。

エーゲ海では是非行ってみたい島があった。ミコノス島だ。ミーハーだが1979年にジュディ・オングが“エーゲ海のテーマ・魅せられて”という曲のバックに流れていたテレビの映像で真っ青な空、白い壁に赤や青い色をしたドームの様な丸屋根の上に小さな十字架の立っている家、底に立ち並ぶ風車、この光景が映し出されていた。 それがミコノス島だった。

クレタからミコノスへいく船は数日先まで出ないというがわかっていたので、アテネでプロペラ飛行機の切符を予約していた。

飛行機はキクラデス諸島を眼下にみながらミコノス島へ着いた。飛行場から島の繁華街ミコノス・タウンへ行くのにはタクシーしかなく、しかもほとんど台数がなかったので、相乗りしてミコノス・タウンへむかった。

小さな湾にそって、カフェ、お土産屋、トラベルエージェンシーがならんでいる。ペリカンが歩いており、テレビで見たのと同じ、ここぞエーゲ海という光景だった。

トラベルエージェンシーへ行き、どこかに泊まりたいというと、フル、フルと言われた。どうやら夏のバカンスの季節で宿は満室だという。
どうしたらいいのか?と聞くとキャンプサイトへ行くかビーチで寝ろという。

翌日早朝のデロス島へいく小船のお願いをして、空き地をみつけてシュラフにくるまって野宿した。
蚊がたくさんいて、顔にとまってほとんど寝れなかった。

翌朝船に乗りにいくと、ビーチで寝たのかと聞かれ、そうだと答えると嬉しそうに笑っていた。

デロス島はミコノスから20kmくらいのところにある小島で、宿泊施設はなく、船着場からすぐに遺跡が始まって、島全体が紀元前7000年〜5000年前といわれる屋根の無い古代遺跡博物館のようになっていた。見覚えのあるライオンの像が立ち並んでいた。

小船でミコノスへ戻り、飛行機でロードス島へ飛んだ。

ロードス島の飛行場はロドス市から南西16kmのところにある。飛行場からなかなか来ないバスを待っているときにアメリカ人のバックパッカーと知り合った。愛想のあまりよくない警戒心の強いやつだったが、宿代をうかすため一緒に泊まろうかともちかけるとのってきた。

結局一晩一緒に泊まって、晩御飯も一緒にたべた。貴重品は身につけて、カメラを枕にして寝た。このとき泊まったロドス市の宿の男は、泊まるのが一晩だけならシーツを洗うのに金がかかるとかいって、2〜3時間待たした後、船もついて、だれも他に客がこないとなると、泊めてやるという態度の悪い不親切な奴だった。ギリシャで現れる男はタクシーのぼったくりや両替詐欺やこの不親切な男など、残念ながら、ろくなギリシャ男としか会えなかった。

ロドス市は新市街と旧市街からなり、新市街は近代的なきれいなホテルがあり、旧市街は城壁のなかにあり、石畳の中世の町並みである。500年前の建物がそのまま残ってる。城壁の門をくぐるとまるで、タイムスリップしたような気になった。

旧市街に接した港は門をでてすぐのところにマンドラキ港といわれる港があり、この港の入り口には一対の鹿の像が船を出迎える。ロードス島のアポロンの巨像とか太陽神ヘリオスの巨像とかいわれる伝説では、現在ある鹿の像のかわりに人の形をした巨像が足を広げて、船がまたの下をくぐるようにそびえていたと伝えられている。

このきれいで魅力的だがツーリスティックいわゆる観光地観光地しているロードス島をあとにして、トルコのマルマリス行きの船に乗った。
トルコ編 トルコ編

ロードス島から船で約2時間、トルコ南西部のマルマリスに着いた。1991年7月29日のことだ。

ここで一泊し内陸のパムッカレへむかった。
パムッカレは温泉地で、石灰を含んだお湯が斜面を流れ落ちるうちに結晶化して、段々畑のようになり白い石灰棚がつくられたことでてきた奇妙な景観地だ。青い空に白い段々畑のコントラストがまぶしかった。ずっと前にタバコのマイルドセブンのテレビCMでも使われていた場所だ。棚の中には温泉がたまり、トルコ人たちが温泉浴している。足をつけると、なま温かい水が気持ちよかった。歩くと、靴底の汚れが白い石灰を汚して黒いすじがついていた。悪いことをしている気になった。日本では立ち入り禁止になるかな、と思いながらここをでた。

パムッカレから西へ、エフェスへ行くバスに乗った。セルチュクという町につき宿を確保したあと、エーゲ海最大の遺跡群、エフェス、古代名エフェソスに歩いていった。途中、古代世界の七不思議のひとつといわれているアルテミス神殿跡を通ったが、柱が一本たって、そのまわりに建物の残骸の石がころがっているだけだった。期待薄いかな、とおもいながら遺跡の入り口へと並木道を歩いていたが、なかなか着かない。30分くらい歩いてやっと入り口に着いた。

すごい、ひろい、古代の町が残っているというのが第一印象だった。クレオパトラが歩いたという大理石の道路を実際に歩いてみた。その頃は海岸線がここまできていたらしい。いまは見渡す限り陸地しか見えない。ヘレニズム時代に造られたという巨大な円形劇場があり、ここは現在もフェティバル会場として使われているという。2万4千人を収容できるらしい。古代の町を奥に歩いていくと、ケルスス図書館と呼ばれる華麗な浮き彫り彫刻の施されたファサードがあった。見事だった。

ポンペイの遺跡もすごいが、ここも、ものすごいなと感心しながらトロイの木馬で有名なトゥルヴァ行きのバスに乗った。

詩人ホメロスの叙事詩イーリアスで述べられている木馬にまつわる伝説を、ドイツのシュリーマンが信じて1871年にトロイの遺跡を発掘したのは有名な話だ。

名声と同時に破壊的に発掘したための批判もすごかったようだ。 たしかにトロイの遺跡は、荒らされたような遺跡で、規模も小さく、たいしたことはなかった。高さ12mくらいの遊園地においてあるような、中に登れる木馬がおいてあるぐらいだった。

ただこの遺跡にいくためにトゥルヴァから乗った公共のバスに、生きたニワトリの入った籠をもったトルコの民族衣装を着た8歳くらいの女の子2人とお母さんが乗り込んできた。その光景がすごくエキゾチックで旅をしているのだという気にさせてくれた。
たまたま近くに座っていたアメリカ人らしき老夫婦と眼があうと、その眼が、エキゾチックだねというように微笑んで語りかけていた。

トロイを後にしてマルマラ海沿いの町チャナッカレへいき、ここの海峡を船でわたって、イスタンブールへむかった。

バス旅行だったが、バスの呼び込みの声が、日本の魚市場でよく聞くようなしわがれた声でチャナッカレ、チャナッカレといっていたのが印象的だった。8月1日イスタンブールについた。かっての東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルだ。

イスタンブールは異国情緒あふれる町だ。3年前の1986年にダボスであったAOのワークショップの帰りに立ち寄ったことがあったが、それ以降、是非またいってみたい数少ない場所のひとつになっていた。

最近、僕の子供に、勉強したりして知識を増やすのは色々な面で自分が楽しめるようになるためだといっている。
旅行の道具として使う英語、医学や科学の面白い研究、楽しむための美術や歴史などしかりだ。しかし親に似て勉強しない。学校を出てから勉強しよう!というのが僕のポリシーでもあるが、せめて勉強したいと思ったそのときに間に合うぐらいの最低のレベルは確保しておいて欲しいと思う。

塩野七三の“コンスタンチノープルの陥落”という本を読んだことがあったので、その当時に思いを馳せ、ロマンに浸ることが出来た。

いくつになっても知的好奇心を失わないで、感動する心を持つ人でありたいと思う。

イスタンブールはボスポラス海峡によってヨーロッパサイドとアジアサイドに、金角湾によって旧市街と新市街に分かれている。ヨーロッパサイドの旧市街オリエント急行の終着駅といわれるシルケジ駅の近くの安宿にとまることにした。 

ヨーロッパサイドの旧市街と新市街はガラタ橋という橋で結ばれている。橋のたもとでサバを炭火でやいたものをはさんだサンドイッチを買って食べながら新市街に渡った。 新市街にあるガラタタワーに登ってイスタンブールを眺めてみた。

ボスポラス海峡と金角湾、正面にはアヤ・ソフィアとブルーモスクの威容がみられた。

翌朝一番に、トプカプ宮殿のハレムへ行った。前に来たときにみれなかったのと、ガイドブックに混むので朝一番に行くように書いてあったからだ。門からハレム参観のチケットを買う場所まで走っていく人もたくさんいたので、僕もつられて走っていった。

ハレムの部屋は豪華な装飾が施してあったが、ハレムにいた女たちは、はたして幸せだったのだろうかと思った。

イスタンブールでは4世紀から6世紀、コンスタンチヌス帝かユスチニアヌス帝の時代に作られたとされる地下宮殿にも行った。奥にあった柱には、見たものをたちどころに石にするという伝説のある髪が蛇のメデュウサの顔が逆さに彫ってあった。

フェリーに乗ってアジアサイドのウシュクダラへ行った。ウシュクダラはるばる来てみれば、、、の歌が頭をよぎった。

旧市街へ戻ってグランド・バザールをうろついた後、妙に身体がしんどくなり、悪寒がしてきた。宿にかえって、ボルタレンを飲んで寝たがよくならない。疲労からくる病気になったようだ。2日間この宿で、寝たきりになった。初めてのことだったので心細かったが、夜はハルシオンを飲んで無理やり寝て何とか乗り切った。

イスタンブールから首都アンカラをへて奇岩で有名なカッパドキア(英語よみではカッパドシア)へと行った。

バスはネヴェシュヒールという町に着いた。町のトラベルインフォメーションでミニバスツアーを申し込んだ。
ツアーではウチヒサールという、奇怪な岩を取り囲むようにしてある城跡のある町や、オルタヒサールという、岩にあけられた穴で蜂の巣のように見える岩峰を観て、迷路の地下都市イエラルフ・シェヒールのあるカイマクルへ行った。

ここには人間サイズの蟻の巣ともいうべき複雑な地下迷路が掘って作られていた。このようなものが、なぜ作られたかは謎だが、おそらくはキリスト教徒がイスラム教徒から逃れるためであろうといわれている。地下都市はいくつもあり、その数は今でもわかっていないといわれている。 一つの地下都市の人口は6万人だったとも10万人だったとも言われており、それが本当だとするとすごい数だと驚嘆させられる。

その夜ギョレメという奇岩のオープンミュージアムのような町で泊まった。宿は奇岩をくりぬいて洞窟のような部屋にしているユニークな宿だった。

ミニバスツアーで一緒だったオーストラリアから来ている若い夫婦とオープンテラスの屋上のレストランで夕食を一緒にしたが、そのオージーが、例に漏れず酒飲みで、つられてたくさんビールを飲んだ僕は翌日、すっかり二日酔いになってしまった。ふらふらの身体にもかかわらず、時間が惜しかったので、炎天下のなか自転車をレンタルし松茸のような奇岩のあるセルベの屋外博物館へ行った。

この無茶な行動ですっかり気分が悪くなってしまった。倒れそうになりながらアダナ行きのバスに乗ったが、そのバスは途中でパンクするわ、揺れるはで散散だった。バスの車内で、えずきながら横たわっていた。
アダナへ着いたときはもう真っ暗だった。アダナで一泊しシルクロードの終点の町アンタクヤへ着いた。

後々思い出すとカッパドキアは見所の多い興味深いところだった。

アンタクヤのバス停を降りてビデオを撮っていると人が集まってきて、俺を撮ってくれといっているようだった。ビデオを指してハウマッチというので、売り物ではないが買ったのは1600ドルくらいだというと、そんなに高いのかとびっくりしていた。

アンタクヤからシリヤのアレッポへ行くバスに乗りたかったが、行く先をシャム、シャムとダミ声で叫んでいてアレッポとは言わないので、何所へ行くか不安になった。 シリア?シリア?と聞くと、頷いたので、そのバスに乗り国境まで行った。
シリア
・ヨルダン編
シリア・ヨルダン編

国境を越え、シリアに入った。

ひとりの男がバスに乗り込んできて、僕の横に座り100米ドル両替しないと入国できないという。降りてついて来いというが、服装が汚いなど胡散くさいので、両替はきちんとした両替所でするというと、ばれたか、という顔をしてバスから降りていった。

まもなく国境に着き、両替所で100米ドルを市中銀行の1/2か1/3の悪いレートで強制両替させられた。

バスは結局アレッポへは行かず、ホムスという町まで行った。アレッポにあるアレッポ城にも行きたかったがあきらめた。

いたるところにアサド大統領の写真が飾ってあるのが印象的だった。ここは遺跡の町パルミラへいく途中にある町だ。夕方になっていたのでこの町に泊まることにした。

バス停を降りると、背の高い汚い格好をした東洋人がこちらを見ている。安物のゴムぞうりをはいていたのが印象的だった。日本人ですかと日本語で話しかけてきた。早稲田大学の学生のK君という人だった。イランから陸路でこちらへ着いたという。町へ行き一緒に泊まることにした。

町を歩いているともう一人の東洋人に会った。県立千葉高校の世界史の教師のI先生という人だった。翌日ミニバスにのり3人で一緒にパルミラへ行った。

ミニバスが村へ着くと、子供たちがよってきて、ベン、ベンという。 最初は何のことかわからなかったが、どうやらボールペンをくれといっているらしかった。ノーというと古い骨董のコインを買えといって見せて来る。 このあたりでは簡単にこのような貴重なものが拾えるのだろう。

 宿を決めて、遺跡めぐりに歩いて行った。

パルミラは噂にたがわぬ広大なすごい遺跡だった。荒涼とした場所に石灰岩からできた白い柱列が、長い回廊を作るように整然と立っている。ここは2000年前シルクロードの隊商都市として栄えたとされている。日本では卑弥呼の時代に、ここにはゼノビアという女王がいて、ローマ軍に滅ぼされたそうだ。遺跡の横に小高い丘があり、その頂上に城砦のようなものが建っていたので、3人で丘の廃墟の城砦まで歩いて登った。そこから荒れた大地に広がる遺跡が見渡せた。

パルミラから南へ230kmの首都ダマスカスへ行きI先生が前金を払ってキープしていたという宿に一緒に泊まることにした。I先生はパルミラに来る前にダマスカスにいたが、その際宿が少なくて、探すのに一日かかって大変困ったそうだ。I先生としばらく一緒に旅することにした。

シリアに入国してからろくなものを食べていなかった。I先生に言わせると、ここはチキン攻撃、マトン攻撃しかないだそうだ。ちなみに子羊の肉はラムといい2歳以上の成羊の肉はマトンといい、マトンは独特の匂いがあるうえまずい。 

I先生はここ1週間ずっと下痢をしているという。薬をあげ、脱水にならないように水を取るように勧めた。こんなところでドクターにあえるなんて、アラーの神のお助けかといっていた。

食堂の店先にヤギの脳みそがそのままの形でサラダの上に乗っている。こちらではご馳走らしい。気味悪かったが、これも話の種になるかなと、脳みそを半分だけ注文して食べた。日本では2001年に狂牛病が話題になったが、ヤギの脳みそでも、異型クロイツフェルト・ヤコブ病になるのではないかと思い、この時に食したことを大変後悔した。もし僕がこの病気を発病したならこれが原因と思ってください。

ダマスカスでは現存する最も古いイスラム寺院のウマイヤド・モスクを参拝した。そこにたどり着くまでのスーク(市場)が面白かった。貝細工のバックギャモンを買った。

駅でヨルダンのアンマン行きの汽車の切符を買いに行ったが、2時間後にまた来いといわれ、2時間後にいくと、明日また来いといわれた。汽車は週に2便ほどしかないと聞き、本当に切符が買えるかどうか不安なまま翌朝駅に行った。
 翌日なんとか切符が入手でき、そのままダマスカスを後にした。

汽車は木製で窓ガラスは割れており、カーブのたびに車両がゆがむ恐ろしくボロいものだった。速度も自転車くらいしかでていないようだった。机をはさんで向かい合わせに座っていたおじさんが、僕のもっているミネラルウォーターを飲ませてくれといってきた。知らない人とのボトルの口のみはいやだったが、あげることにした。ゆっくりと汽車はすすみ、何もないところで1時間止まったりして、やっと国境についた。国境を越えるのに2時間ほどかかり、汽車はほんの100kmくらいの距離をまる1日かけてやっとヨルダンに着いた。

僕とI先生が日本人とわかると、入国審査で一番後回しにされた。何しに来たかとひつこく聞かれ、入国拒否される不安が心に満ちたが、何とか入国許可がおりた。

アンマンのダウンタウンへ行き宿を探したが宿がなかなか見つからない。 4軒ほどまわったところでルーフならあるというので部屋を見に行くと屋上にくたびれたマットがたくさん並べてひいてあった。 仕方なくここへ泊まることにした。僕の横には香港から来たという若い中国人の女の子が荷物を広げていた。タフな娘だなあと感心した。I先生が僕の寝るマットに虫除けスプレーをかけてくれた。

町へでると、イスラムではご法度のビールが売っていたので、買って横のレストランで夕食を食べながら飲んでいると給仕がきて、アルコール、ベリーバッドと怒って何度も言ってきた。わかりました、御免なさいと言って、そのレストランを出た。

町をあるいていると大きなローマ時代の円形劇場の遺跡がありそこで、歌やダンスのイベントをしていた。ヨルダンのフセイン大統領を祝う催しらしかった。ここで夕刻のひと時を過ごした。

翌朝、ぺトラという映画インディ・ジョーンズにでてくる遺跡に行くことにした。遺跡にいくためのタクシー乗り場で、2人のドイツ人と知り合い、お金をセーブするため一緒に行くことにした。ドイツ人が、交渉はわれわれがするので、君たち日本人がでてくるとぼられるから出てくるなといわれた。

彼らは驚くほどひつこく交渉していて、150kmのドライブにしては、びっくりするほど安い値段を勝ち取っていた。 

ぺトラは紀元前6世紀ごろに築かれたという。歴史上ぺトラが姿を消したのは7世紀ごろで、それから1200年間まぼろしの街として伝説化されていた。それが1912年スイスの探検家によって発見された。岩山のあいだの荒れた砂漠を歩いていくと、大きい岩山でつくられた狭い隙間がある。これを通ると目の前に、岩山を掘って作られたピンクのファサードが現れた。エル・カズネだ。すごい!高さは3階建てのビルくらいか。思わず、オオーとため息が出た。これを最初に発見したスイスの探険家の驚き喜びは大変なものだっただろう。遺跡は広大で、奥にいくとまだすごいのがあるというので、炎天下を歩いて行った。I先生は、まだ下痢が続いているそうで、体力的に無理ですと途中であきらめて戻っていった。2時間ほど歩いてやっと着いた。 岩山を掘り込んで作ってある修道院エド・ディルがそびえていた。

岩山を登りエド・ディルの屋根に登れた。ベドウィンの羊飼いの少年が笛を吹いて羊を連れている。異国情緒満点だ。エド・ディルの屋根を屋根ずたいに飛んでみせてくれた。僕も上から覗いてみたが、高いところが苦手な僕はお尻の穴がキュツとなった。

アンマンに戻り、イスタンブール行きの飛行機のチケットを買い、アンマンでエジプトのほうへ行くといっていたI先生と別れた。イスタンブールに戻ったその日にブルガリアの首都であるソフィア行きの夜行列車に乗った。
ブルガリア
・ル|マニア
・ハンガリ|編
ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー編

ソフィアには朝着いた。

駅をでて目的のリラの僧院に行くバスを捜したが、既に出発しており次のバスは昼の14時半だという。 すでに8月の13日で、帰国予定まで3週間もない。 出来るだけ効率よく旅をしたかった。 リラの僧院へいくツアーは週2回しか出ないというのでタクシーで行くことにした。

タクシーの交渉をしたが、法外な値段をいってくる。 駅から少し離れたところに止まっていたタクシーにリラの僧院までいくらで行くかと聞くと20ドルでどうかと言ってきたのでOKした。タクシーに乗ると運転手がいったん家に帰っていいか?と聞くのでどこかに連れて行かれて強奪されるのではないかと心配したが、話を聞くと家族も行ったことがないので一緒に連れて行きたいというので信用した。家は日本でいう市営住宅のようなところだったが、小奇麗にしていた。8歳くらいの男の子と4歳くらいの女の子と奥さんがでてきて一緒に行くことになった。

リラの僧院はソフィアから130km離れたリラ山地の山間にあるブルガリア正教修道院のうちの総本山といえる大僧院である。黒と白の縞模様のアーチ状の柱が各階層に並んでいて、これが深い山間の緑とからみあい、きれいで印象的な外観だ。内部もイコンや木彫りの聖像などがあり見ごたえ十分であった。

ソフィアに戻り、タクシーの運転手さんが、せっかくだから家へ泊まっていけといってくれたが、残念ですが先を急ぐのでと断った。夜行列車でルーマニアのブカレストへ向かった。

翌朝ブカレストについて両替のところに並んでいると、マネーチエンジといって中年のおじさんが近寄ってきて、手に持っていた20ドルも無理やりもぎ取り、代わりによくわからない紙幣を押し付けて逃げていった。追いかけようとしたが、その仲間と思われる数人の男たちに行く手を阻まれた。なんというひどいところだと思ったがどうしようもなかった。しかたなく再度20ドルを両替所で両替して町へでた。

ブタペストへ行きたかったので、ブタペスト行きの列車の切符を買うべく国鉄旅行センターを探して行った。人がいっぱい並んでいた。列に並ぶと、切符を買ってきてやるからお金をよこせといってくるやつが何人かいた。信用できないので断った。1時間ほど並んでやっと順番が来たと思ったら、窓口のおばさんがいなくなった。どうしたのかと聞くと、昼休みで1時間休憩といっている。怒り狂いそうになったが、しかたなく我慢して待って1時間後にようやく切符を買うことができた。なんというサービスのなっていない国なのだと思った。

昼食をとろうとしてもレストランのトレーには貧弱なソーセージが2〜3本しか置いていなくて、何とか中華料理屋を見つけて入ったがとてもまずかった。散々な思いで、薄暗いブカレスト駅から、ものすごく込んでいる汽車にのりブタペストに向かった。結局ブカレストはほとんど何も観光しなかった。

ブタペストは“ドナウの真珠”とよばれるハンガリーの首都だ。ブカレストでいい思いをしなかったので、第一印象で、すごくきれいで素敵な町に感じた。食事もよかった。

町をブタ地区とペスト地区にわけ流れるドナウ河。そこに架かるきれいなくさり橋。13世紀に作られたという荘厳で巨大なブタの王宮、色彩もきれいでとんがり屋根のかわいいディズニーランドのお城みたいな漁夫の砦。ネオ・ゴシックの壮麗な国会議事堂、暗い東ヨーロッパから明るい西ヨーロッパのほうへ向かっていると感じられ、ここにきてよかったと実感した。ここで一泊し翌日ウイーンへ汽車で移動した。
オ|ストリア
・北イタリア編
ドイツ
・ベルギ|
・フランス編
ドイツ、ベルギー、フランス編

翌日ドイツのミュンヘンについたあとフュッセン行きの電車に乗った。電車の向かいの席のオーストラリアから来ているという老夫婦としばしの会話を楽しんだ。

フュッセンはロマンチック街道の南の終点で、バイエルンの国王、ルートヴィヒ二世が17年の歳月と巨額の費用をつぎこんでたてたノイシュヴァンシュタイン城があるので有名なところだ。

ひととおり城見物してからミュンヘンへ行き、チェコのプラハ行きの寝台特急に乗った。夜中、ドイツとチェコスロバキア(当時はまだ1つの国だった。1993年に分離独立した)の国境で起こされた。パスポートチェックをうけ僕とその他2〜3人が強制的に列車から降ろされた。どうやらトロントで取ったビザの有効期限が2日前に切れていたようだ。チェコ語で書いてあったのでわからなかったが日付けをあらわす数字が2日前のものだった。名も知らぬ国境の町で朝をむかえ、あきらめてベルリン行きの電車に乗った。

ベルリンでは壊れて間もないベルリンの壁の残骸やブランデンブルグ門をみた。旧東ドイツの地区では英語はまったく通じなかった。ベルリンからケルンへ行き駅前にある大聖堂を見た後ベルギーのブリュッセルへ向かった。

ブリュッセルの町の中心グラン・プラスへいった。古いヨーロッパ調の建物に囲まれた荘厳な広場だ。すこし歩くと、ブリュッセル名物小便小僧の像があった。小さいし、期待はずれでがっかりした。王宮をみてから駅へ戻り、ブルージュ行きの電車にのった。

ブルージュは天井のない博物館とも称される古い姿を残す美しい町だった。ユースホステルでベッドを確保したあと、絵画的な小運河、中世の鐘楼、ベルゲンのまちでみたような三角屋根の建物などが印象的な町並みを堪能できた。 郊外は城門と風車がならび散策が楽しめた。ユースホステルのベッドで寝ていると横にいた女の子たちが一緒にビールでも飲みにいかない?と誘ってきた。同じ部屋にいる男女6人くらいで町のオープンカフェへいき、しばしの時間をお喋りして楽しんだ。うち一人はオーストラリアからロータリークラブの交換留学でベルギーにきているという女の子でお父さんは医者だといっていた。30を越えるいい年をしてユースホステルに泊まっていたので、同じ医者だというのが恥ずかしかったが告白すると興味深そうにしていた。

ブルージュからフランスへいき、砂地に浮かぶ要塞のような僧院、モン・サン・ミッシエルへいった。このあたりは潮の干満が激しく、昔は満潮時は完全に島となって孤立したらしい。いまでは舗装された道路が通っているが、潮が満ちるにつれて海の中に浮かぶようにみえる。ルパン3世の奇厳城そのものだった。

パリに戻ったが、エールフランスの大阪行きの飛行機の出発まで1日しかなく、ほとんどどこも見ないまま飛行機に乗り込んだ。飛行機から雪景色のない黒灰色の富士山がみえた。

留学期間を含め2年半という、人生のまわり道をしてしまったが、後悔はなかった。

これからも自分のペースで、あせらず、ゆっくりでもいいから一歩一歩、日ごろ忘れがちな空の青さや花の美しさを感じる感性を持ち続け、今というときを大切にして、いつか自分が死ぬときには、ああいい人生だったと笑いながら死ねればいいのになぁ、、なんて思っていた。 
 
ネパ|ル

チベット紀行
1997年の3月末、それまで勤務していた病院を退職し、香港から大阪までの世界帆船レールであるSAIL OSAKA ´97に参加した後、旭区の某病院で副院長として働くまでの期間、JICA(国際協力機構)を通しネパールのトリブバン大学から留学していたドクタージャーからの誘いもありネパールへ行くことにした。

5月11日上海経由で約9時間かけ首都カトマンドゥの空港についた。タクシーで町へ行き、安宿に泊まることにした。停電しているのか、宿中の電灯がつかず蝋燭が灯してあった。宿からジャーへ連絡いれると、ほどなくジャーが現れた。
もう既にチェックインしてしまっているので今日だけここに泊まり明日から自分の家に泊まれといったので、そうすることにした。その晩はジャーと近くのレストランで食事をした。蝋燭の灯りで食べるカレー味のネパール料理、そして道路の土の匂い、中世の時代にタイムスリップしたような気にさせられた。砂埃っぽくて決してきれいとはいえないが、何故か懐かしく幼少のころを思い出させた。100年くらい変わっていないのではと思わせるところだった。

翌日、ジャーの診療所で、一緒に診察をした。治療方針など色々きかれた。床はなく土間の診察室、だがスタッフは親切で居心地はよかった。午後、トリブバン大学医学部付属病院へいった。手術室などを見学、設備は想像していたより調っていた。病院の医師たちと遅い昼食を取ったが、みな日本に興味があるらしく、日本へ勉強しに来たいといっていた。カトマンドゥでは、丘の上にそびえ全てのものを見通すといわれる目が仏塔に描かれ、そのまわりをお経がはいったマニ車を信者が回しながらお参りしている1500年前に建立された仏教寺院スワヤンブナート(目玉寺)、火葬の煙がたなびき荼毘にふされた遺体が寺院の前のガンジス川の支流である聖なる川とされるバグマティ川に流されるのがみられるヒンドゥー教の寺院パシュパティナート、世界最大の仏塔といわれるボダナート、大きなヴィシュヌ像が池に横たわるブダニールカンタなどへ連れて行ってもらった。

ネパールは約2割が仏教徒で、残りがヒンドゥー教徒、両方の宗教を信仰している人も多いという世界でもめずらしい2つの宗教が混在するところだそうだ。カトマンドゥの南3kmに位置する古都パタンは王宮をはじめとする見事な建築物がみられ街中が美術品のような見ごたえのある街だった。また、東へ15kmほどにあるバクタプルも古都の趣のただようエキゾチックなところだった。2006年1月26日に放送されたNHKの探検ロマン世界遺産という番組によると、これらの都市で近年無秩序な開発が進み街並みが失われているという、世界遺産のなかで存亡の危機に面しているものを危機遺産というらしいが、カトマンドゥ盆地は危機遺産に指定されているという。何とかならないのかという気持ちでいっぱいだ。

ジャーの父君はネパールの前大臣だと聞いていたので、大豪邸を想像していたのだが、ごく普通の家で、また弟家族も同じ家で養っているとのことだった。ネパールではお金を稼ぐ能力のある人が一族を養うようだ。水不足なのか、ジャーの家でのお風呂というとバケツ1杯のお湯が渡され、それで頭を洗ったり体を流したりしなければならなかった。ジャーは診療で忙しいので、医学生が街を案内してくれた。路地裏の屋台で地べたに置いた木箱に座って焼き鳥のようなシェクワという串焼きを食べた。それをジャーが聞いて、あんな不衛生なところへなんで連れて行ったのだと、その学生に怒っていた。少し不安になったが、お腹は大丈夫だった。

ジャーの勧めと彼の友達の小さなスポーツ店経営の大型バイクにのった髭の中年伊達男のアレンジで、8泊9日のヒマラヤトレッキングとその後、7泊8日のチベット旅行へ行くことになった。

5月14日チュラ・ラマという名前のシェルパを雇いカトマンドゥから西へ200kmのペワ湖とアンナプルナ連峰の展望で知られる町ポカラへバスで向かった。途中トイレ休憩などあったが、便器などなく、おおらかにも女性は足首まである長いスカートの裾をまくりあげてかがんで道の端で用を足していた。ポカラへついた夜はネパールの民族音楽の生演奏を聞いたり、一緒に踊り子とダンスを踊ったりして楽しんだ。翌15日早朝、ポカラの空港からプロペラ機に乗り、一気にヒマラヤ、アンナプルナ保護区にあるジョムソンへ飛んだ。ポカラから歩くと9日かかる距離だそうだ。飛行機は標高8091mのアンナプルナをすぐ右横にみながら着陸した。大きな三角錐の立派な姿をみせているのは標高8167mのダウラギリ喫だ。ここでアンナプルナのトレッキングパーミットを取った。ここから奥にチベット高原のほうにいくとムスタン王城という秘境があるそうだ。我々はその方向に途中までいき、聖地といわれるムクティナートへ向かった。殺伐とした荒地が視界に広がるが、上をみると雪に覆われた山々が圧倒的迫力でみられる変わった光景が続いた。荷物を積んだロバのむれと数回すれ違った。途中休憩所があり、子供たちがアンモナイトの化石を買わないかと見せに来た。ここは大昔は海底であり、大陸大移動によりインド半島がユーラシア大陸に衝突して盛り上がりヒマラヤの山々ができたのだ。カグベニという村を通過しジャルコットという小さな村についた、チュラ・ラマは、これ以上トレッキングするのはきついので、ここで泊まろうといったが、まだ午後3時頃だったので、ムクティナートまで頑張ることを主張した。結局ムクティナートまで行くことになったのだが、ここからは登りで、酸素も薄く非常に辛かった。シェルパのラマもふぅーふぅー言っていた。ジョムソンを出発して9時間後の夕刻やっとムクティナートへ着いた。ここは標高3798mで、天然ガスの炎が湧泉の脇から噴出している場所があり、聖所として祭られていた。ヒンドゥー寺院や仏教寺院もあり巡礼者も多くみられた。夜はチベットの水牛の肉の蒸し餃子、モモを食べた。軽い高山病で頭痛がしたのでベッドに横たわっていると、床を叩くような音がする。窓から外をみると、地元の大人たちがメンコのようなゲームをしていた。夜はとても寒かった。

16日ムクティナートを出発、下山を始めた。同じコースをジョムソンまで戻り、更にすすんだ。時折風で砂がまきあげられる河原をくだりながら標高2670mのマルファという村まで行きここに泊まった。マルファをでてインドとチベット間での交易で栄えたダガリ族の村であるトゥクチェを通り、石ころだらけの川原を下っていくと標高2560mのラルジュンの村へついた。さらにカロパニ村からレテ村へ行く行程では左手にニルギリ、アンナプルナ喫が雄大に見ることができた。このあたりからいままでの茶色い山肌と石ころの殺伐とした周りの景色から、徐々に木々の緑が増えてきた。レテ村をでてカリ・カンダキ川の支流のレテ・コラー川の吊橋をわたり、荷物を背負ったロバの行列とすれ違いながら行くと松林にかこまれたタカリ族の村ガーサへ着いた。ここで、チベット風の白い平屋根の家に宿をとった。台所を覗くと宿のまわりから取ってきた薪で料理を作っていた。10代半ばくらいの料理をしている女の子に日本をしっているか?と尋ねると、名前だけ知っているがどこにあるかは知らないという。カトマンドゥですら行った事がないといっていた。おおらかな満面の笑顔を絶やさない子で、幸せかと聞くと、幸せだよといった笑顔が印象的だった。物質的には比較にならないほど恵まれている日本の若者の受験疲れした顔を思い出して、本当の幸せとは何なのだろうかと思った。幸せとは、その人がそう感じること、だから、どのような環境にあろうとも、それを受け入れ幸せであると思う事がとても大切なのではと感じた。チュラ・ラマはネパールのビールだといってドブロクのようなロキシーというお酒をご馳走してくれた。こちらの人はスプーンを使わないようで、ダル・バートという豆のスープカレーにご飯が添えられたものを手で上手につまんで食べる。

翌朝ガーサをでて、川原沿いに下り岩壁をくりぬいた道から狭い谷をとおるとダナの村に着いた。そこから2時間ほど歩くと標高1189mのタトパニ村へついた。ここに宿を取った。比較的大きな村で、バザールやチェックポストがあり、ロッジもならんでいた。タトパニとは熱い水という意味だそうで、村を流れるカリ・カンダキ川の川原に温泉が湧いている。一応脱衣小屋も川原にあった。水着をもってきていなかったので、パンツのまま川原の熱い湧き湯と冷たい川水が混ざり合う浅瀬に体を浸した。温泉にひたりながら、ニルギリの山をながめるという至極の時間を過ごせた。日本にいると些細なことで振り回されている自分でも、川のせせらぎを聞いて流れる雲をみているだけでとても豊かな気持ちになれた。翌日シーカ村へ向かって出発、ここからは4時間の登りとなる。かなり疲労がたまっていたので、ポニーに乗せてもらうことにした。2つの吊橋をわたると、森のなかをどんどん登っていった。シーカからゴレパニ村へ行った。5月19日ここに宿泊し、翌朝ウレリからビレタンティへ行き、ここからバスでポカラに戻った。湖に写る、神々の座、標高6993mのピラミッドのような尖った形の雄大な白嶺マチャプチャレを眺めながらひと時を過ごした。ポカラでの最後の晩チュラ・ラマが花畑にいる彼の妻と子供の写真をみせてくれた。花畑の奥にはヒマラヤの雄大な山々が写っていた。これまでのヒマラヤトレッキングと、この1枚の写真は、僕に目にみえるものに価値を置く社会よりも、見えないものに価値を置くことのできる社会の魅力を余すところなく伝えた。5月22日ポカラからバスでカトマンドゥに戻り、翌23日には、エベレストへの遊覧飛行機に乗った。名だたるピークが次々にあらわれ白い山脈が連なっていた。カトマンドゥには1泊だけして、翌日には中国国境を越えてチベットのラサへ陸路で行く、7泊8日の新たな冒険旅行へと出発した。
インド放浪記 旅はスポーツだ!と思っている。ハワイやプーケットのビーチで寝そべっているのは旅ではない。行楽というのだと思う。インド!この魅惑的な響きがするこの国へ、開院2カ月前の本来なら開業準備で大忙しの時期に、これが最後のチャンスかもと思い、大阪本町にあるインド領事館へいき査証をもらい、バックパックを背負ってエアインディア319便の格安チケットを買って旅立った。 今から13年前の2000年1月8日のことだった。香港経由で、デリーには夜の9時過ぎに到着した。空港からデリー市内へ行くバスに乗って降り立った。 自称ガイドやタクシードライバーがバス停留所で待ち受けていた。 ガイドブックに載っている安宿へ連れて行ってくれるようにリクシャ(ちなみに人力車という日本語がなまってリクシャというようになったとか)という小型オート3輪の後部座席を二人掛けの椅子に改造したバイクのような乗り物の運転手に頼んだが、こいつが曲者だった。 OK.OK. No problemといいながら、人気のない暗がりへ連れて行きよった。 そこで待ち受けていた男に運転手がなにやら言うと、待ち受けていた男が、いきなり殴りかかってきた。 応戦してようやく振り払うやいなや、運転手はリクシャを出し、その場所を離れながら、指定したホテルのあたりは、今みたいに危険だから安全なところへ連れて行ってやるとかなんとか言って、どこを走っているか分からないのをいいことに、全く違うホテルへ連れて行かれた。 結局、客引きとしてマージンの高くもらえるホテルへ無理やり連れていく、ということ繰り返していたようだ。これにまんまとひっかかったところからインドの旅がスタートした。 騙されて連れて行かれたホテルの宿泊代は2000ルピー(5500円)だった。翌日泊まったCamran Lodgeというモスクがホテルになっているところの宿泊代は80ルピー(220円)だったから、25倍もしたのだ。1月9日、どこにあるのやらわからないホテルを逃げるようにしてチェックアウトし、道行くインド人に尋ねながら公営バスに乗り、デリー駅に着くことができた。 ラージャスターン州のウダイプル行きの列車の切符を買おうと思っていたので、駅の切符窓口に行ったが、並んだ窓口ではないといわれ違うところにいかされ、そこでさんざん待たしている途中でランチタイムとかいって切符売りが窓口から消えたりして、切符を買うまでになんと5時間を要した。これでこの日が終わった。1月10日午前中は、インディアン航空のオフィスへ行き、インド周遊の航空券を500米ドルで買い、午後14時10分デリーのサラーイ・ロヒーラ駅発の夜行列車で、パキスタンと長い国境を接する砂漠の国の湖の町のウダイプルへ向かった。途中の停車駅で、チャパティ(薄焼きパン)とカレーを買って食べた。翌朝ウダイプルに着いた。ウダイプルは、ピチョラー湖に浮かぶ宮殿のようなホテル、レイクパレスホテルで有名なところだ。 このレイクパレスホテルに泊まることにした。(写真)ホテルまでは舟つき場から小舟で行かなければならない。このホテル、まるでマハラジャの宮殿のようなエキゾチックなホテルだった。さすがに値段は高く一泊15000ルピー(4万円)したが、価値は十分あった。ホテルの岸むかいは御影石と大理石で作られた荘厳なマハーラーナ(武王)の宮殿が旧市街を見下ろすように佇んでおり、一部はホテルとして宿泊もできるようになっていた。街中は、象やラクダや牛が、人に交じって行きかう喧騒の雑踏、タクシーを500ルピーでチャーターしたりして、侍女たちの庭園やネルー公園へいった。夕方の18時10分発の夜行列車で州都でもあるジャイプルへ移動した。ジャイプルへは朝の6時20分到着、ここの旧市街の町並みが赤味の強いピンク色に統一されており、別名ピンクシティとも呼ばれている。観光案内所へいき半日観光のツアーに参加した。ミニバスで、ジャイプルの北にあるアンベールの山城や風の宮殿(ハワ・マハル)という正面からみると彫刻をほどこしたテラスがぎっしり並ぶ優雅な建物であるが、奥行きが非常に浅い、張りぼてのようなファサードの建物を見物した。また夜行列車に乗り、デリーに翌朝戻った。列車での夕食はカレーのサービスがついていた。まるで飛行機で出される食事のように男がカレーのセットを社内でくばっていく。 これが結構おいしかった。デリーでは前と同じCamran Lodge に泊まり、受付に貼ってあったタージマハールへ行く最も安いツアーを申し込んだ。朝の6時集合で300ルピー(800円)との事だった。翌朝まだ暗い6時前に集合場所に行ったが、待てど暮らせどバスが来ない。 また騙されたのかと不安がよぎりつつ40分ほど待ったら、汚いバスが来た。ツアー客は私を除けてインド人のみだったが、とりあえず安堵した。 アーグラーへ向かい、まずはアーグラー城を見学、ここからヤムナー河岸沿いに佇むタージマハールの白亜のドームが望まれた。タージマハールへ移動した。たまたま拝観料が無料の日だったようで、沢山の人が訪れていた。ここは、宮殿ではなくて、巨大な墓ということだった。江戸時代前期の徳川家光が将軍の時に22年をかけて作られた、巨大な白大理石の皇帝の奥さんのお墓だそうだ。 入口をはいると、建物に向かって、まっすぐ泉水の池が配置され完璧な左右対称で白い建築物と塔が配置され見る者を圧倒する。 この後観光バスはファテープル・スィークリーという壮大だが、鳥のフンで黒い石畳がところどころ白く汚れている都城の遺跡へいき、そのあと、ヒンズー教寺院を10か所くらいまわって、その都度礼拝していった。寺院にいくたびに、みんながお参りするので、信者でもない私には、お寺詣に6時間もかかり、もういい加減にしてほしいと思っていた。結局、日付の変わった真夜中12時すぎにやっとデリーに戻ってきた。 知らなかったとはいえ値段が安すぎる地元の人のみのツアーも考えものだ。 でも一緒にバスにのっていた、インド人の家族がとても親身に話しかけてきてくれて充実した普通では体験できない地元の人がヒンズー寺院を敬虔に参拝する姿もみることができ、よき思い出になった(写真はタージマハールをバックにその家族と)。 1月15日デリーからカジュラーホーまで飛行機で飛んだ。のどかな田園が広がる、ゆったりとした田舎だ。ここにある寺院群は世界遺産にもなっていて寺院の外壁に詳細に、これでもかというくらい男女の交合像が壁一面に彫刻してあった。ミトゥナ像というらしい。70ルピー(200円)で自転車を借りて田園地帯を散策した。翌16日バナーラスへ飛行機で向かった。空港からタクシ―と値段交渉してサールナート経由してバナーラスまで連れて行ってもらうようにした。 サールナートは、バナーラスの北東10kmのところにあるブッダが初めて説法をした初転法輪の地である。鹿公園というところを歩きながら釈迦の遺骨が安置された高さ39mの円筒形の仏塔であるダメーク・ストゥーパへ向かっていると、近くに立っていた男が寄ってきて、なにやら説明しだした。 何を言っているのかよくわからなかったが案の定、後で、ガイド料をよこせといわれた。ここには、日本人のお坊さんもいて、貧しい地元の子供達のためのサールナート法輪精舎という日曜学校を開いて英語や仏教を教えているとのことだった。日本に帰ってから余ったインドルピーをそこに送った。バナーラスについたが、タクシーの運転手が交渉した金額と同じくらいのチップを払えという。 ダメダメといって拒否するが、それまでは、すごくフレンドリーだったくせに、ものすごくひつっこい。 結局ちょっとだけチップを払って交渉終了した。こういったことはインドに来てからしょっちゅうあった。 バナーラスの町へ入り、Puja Guest Houseに1泊250ルピー(700円)で泊れるように交渉した。部屋からは、緩やかな湾曲をえがくガンガー(ガンジス川)と何もない対岸が望めた。ヒマラヤの水を集めたガンガーがシヴァ神の額にかかる三日月形に曲がる所にこの3000年の歴史のシヴァ神の聖都はあるそうだ。ヒンドゥの教えによれば、ガンガーの聖なる水で沐浴すれば、すべての罪は浄められ、ここで死んで、遺灰がガンガーに流されれば輪廻からの解脱を得られるという。 ガンガー川岸を散歩すると、多くのひとが沐浴している。 水はきれいとはいえないし、動物の死体のようなものも流れていく。それでも、実際にその場にいると沐浴したくなってくるから不思議だ。 どこかで、ほんとうに沐浴しようと思い、川沿いの土手を散歩しながら場所を探したが、沐浴している間に服や靴を持って逃げられるのが心配で、というより、いままでの経験から絶対そうなるような気がして断念した。街中はバザールのように狭い路地に小さい店や食堂がならんでおり、こじきや巡礼者、牛がいる。 腕を切断している人が、近寄ってきて切断部をみせて、金を恵んでくれといってくる。 日本語のカタカナで、ナマステ・ババレストラン超デリシャスと書いてあるノートを渡されたので、そこで夕食をとったが、デリシャスではなかった。 バナーラシの雑踏は半端ではなく、サルまでが軒下を走っている。500年前も今と同じような風景と雑踏だったのではないか、世界の中には、こんな混沌としたすごいところもあるのだとある種感動した。川岸に停泊しているボートからガンガーの日の出を30ルピーでみせてあげるがどうだといってきた。 翌朝にお願すると約束した。朝早く起きて薄明かりの中、舟着き場へ行き舟にのった。めざとくインド人ではない私を見つけたのか、動きだしている舟に飛び乗ってきた見知らぬインド人が、マザーテレサがどうのこうのと話しかけてきて、うっとおしかったが、やはりボートを降りる前に寄付するようにと、お金せびりだした。あんたにではなく、直接マザーテレサと関係のあるところへ行って寄付するからと言い、そそくさと舟から降りた。 ボートからは、ガンガー川岸で組んだ薪の上に死体をおいた火葬もみることができた。17日の夕方の飛行機でデリーに戻った。 インドに初めて着いたあ日と同じようにバスで市内にいくと、バス停で、あの、初日の曲者リクシャ運転手が獲物を狙うかのようにバスから観光客が降りてくるのを待っていた。わざと目の前に立って睨みつけてやると、顔を見て思い出したのか立ち去って行った。 翌朝デリーからインドの南端、三角形の先っぽにあるトリヴァンドラムへ飛んだ。 30ルピーを払い列車でインド亜大陸の最南端カニャークマリ(コモリン岬)へ行った。途中の車窓の景色が緑豊かで、椰子の木が立ち並ぶ南国風景が素敵だった。コモリン岬はアラビア海、インド洋、ベンガル湾の3つがここで一つに合するところだ。聖なる場所とされる、この岬で沐浴する人を眺めてから、とんぼ帰りで列車に乗り、トリヴァンドラムに戻り、町から16km南にあるインド一美しいといわれるコバーラムビーチへいき、ここのHotel Samudraに2000ルピーで滞在した。 シーズンオフなのか人影まばらだった。アーユルベーダというインド式マッサージをしてもらおうかと思ったが、ぼられたときに交渉するのもしんどいのでやめた。
19日コバーラムビーチから6ルピーでミニバスに乗り、トリヴァンドラムへ戻り、そこから27ルピー支払って、バスでクイロンへ向かった。クイロンからアレッピーあたりのケーララ州の海岸沿いは無数の川と入江がからみあってデルタ地帯を形成する場所で、南国情緒あふれるヤシの木の間ぬけながら、運河や水路をボートでのんびりクルーズするバックウォーター(水郷地帯)クルーズ観光でとても人気のあるところだ。クイロンからアレッピーまでの翌日のクルーズのチケットを150ルピーで買い、Manalrkshimi Lodgeというところに75ルピーで泊った。クルーズ船は全長15mくらいの大きさで、2階は青空天井で、一階は一部椅子が置いてあって、バイクなんかも乗せられるようになっていた。ヨーロッパからと思われるバンダナを頭にまいたワイルドそうなカップルは大きなバイクで乗船してきた。クルーズは、岸辺の村人の生活をみたり、時々止まって、岸辺におりバナナの葉っぱをお皿にして、その上にライスや数種類のカレー、漬物、チャパティをのせてある食事(ミールスと言うらしい)をいただいたりしながら、8時間ほどかけて濃いいオレンジ色に染まる黄昏のアレッピーについた。途中の運河や湖ではチャイニーズ・フィッシング・ネットがみられたり、とても南国情緒あふれる良いクルーズができた。アレッピーからコーチンまではバスで行った。27ルピーかかった。コーチンではSealord Hotelというところに1,200ルピーで泊った。フォートコーチンへいきインドではじめて魚のカレーを食べたがなかなかおいしかった。給仕の男が、首が巻きバネになっている人形のように首をふりながらオーダーをとった。インドに来てから何度か見たことがあったのだが、こちらの男は首を横に小まめに振る癖があるようで、面白可笑しかった。21日飛行機でコーチンからゴアへ飛んだ。ゴアはインド亜大陸の西のアラビア海に面したちょうど真ん中あたりにある、きれいなビーチが沢山あるリゾート地だ。 もともと1510年にポルトガルが進出、この地にリスボンを模した町をつくったことから歴史ははじまった。1970年代は、ヒッピーなどのたまり場になっていたようだが、私の滞在中でも、ドラッグ酔いしていると思われる西洋人の女がよろめきながらホテルのバーに入ってきて錯乱するなど、ここはなんでもありか、、、というような所だった。ゴアではオールドゴアという海のシルクロードで栄えた地域にいき、鉄砲伝来種子島のフランシスコ・ザビエルのミイラ化した遺体が安置されているボム・ジェス教会へ行った。ゴアでは、アンジュナビーチにあるPalmasol Beach Hotel へ410ルピーで泊った。翌朝の22日350ルピー払いタクシーで空港へいった。飛行機のチェックインをし、搭乗口へむかっていると、なんとアメリカ人の友人で日本に来た時は私の家に滞在したこともあるニューヨークのロングアイランド大学のラリー・リドル教授が歩いていた。 インドを1周するという手紙をもらってはいたが、まさか偶然に出合うとは、、、、。 声をかけると教授もとても驚いていた。ムンバイ空港に着陸してから、宿はどこなのかと聞いてきたので、まだ決めていないというと、教授の泊るTaj Mahal Hotelに一緒にとまったらいいといわれた。結局一緒の部屋に割り勘で泊まることにして、その夜は、教授と一緒に旅行しているニューヨークの芸術家の人たちとトリシュナというレストランで、ダンジネスクラブ(蟹)のカレーあえなどの豪華な夕食をとり(写真はムンバイで最も有名な魚介の店、トリシュナ(Trishna)で、教授一行と)インド門の横に建つ豪奢なホテルに泊まった。食事のときの会話でリドル教授がインドの男は首を振るといってマネしていたことを覚えている。思う事は同じだなと思った。 このタジマハール・ホテルは2008年11月末のムンバイ同時多発テロの標的のひとつになり大きく報道されたが、このテロで174人が亡くなった。翌日、教授に誘われ、ホテル横にあるインド門からでる80ルピーのボートで約1時間かかる世界遺産エレファンタ島へ行った。島に上陸後、金毘羅さんぐらい長いと思われる石の階段をどんどん登ったところに石窟があり、ここに8世紀に掘られたというダイナミックな彫刻があり圧倒させられた。この長い階段の入り口には輿の力男がたむろしていた。
ムンバイでゆっくりしていてもよかったのだが、ガイドブックを見ているうちにどうしてもアジャンター・エローラの石窟が見たくなった。日程的に無理があるが、アウランガーバードまでの往復を陸路ではなく空路にすればギリギリ行けそうなので、往復航空券を75米ドルで購入し、ムンバイで教授と別れ、24日午後3時40分の便でアウランガーバードへ行った。ここは、ムンバイの北東350kmにあるデカン高原の市場町で、2〜7世紀に建造された仏教窟院群やムガル時代の遺跡が残る場所だ。町では、インド映画を見た。踊りと音楽とが満載で、言葉はわからなくても面白かった。映画館の入場料は35ルピーだった。アメリカでもカナダでも映画はそんなに高くないが、インドの映画館はすごく安いと思うし、日本の1500円に至っては、はっきりいって高すぎると思う。 面白かったので、続けて違う映画館でインド映画をみたが26ルピー(60円)だった。翌25日この日夜にデリーから大阪行きの飛行機に乗らないとならない。 そのためには、午後5時半にアウランガーバードの空港から離陸する飛行機に乗らないとならない。 つまり、遅くとも午後5時には空港にいなとならないということになる。アジャンター・エローラの両方ともに絶対行きたかった。 しかし短時間で双方を巡るツアーはなかった。タクシーをチャーターするしかないので交渉したが、1500ルピーと吹っ掛けられた。結局、空港に4時半までには送ってもらうという約束で辛酸を嘗める思いでこれを受け入れた。午前中は、ダウラターバードという砦跡、アウランガーバードケーブを観光した。アジャンターの石窟群(写真)は、1819年に虎狩りに来ていたイギリス人士官のジョン・スミスが大きな虎に襲われ奥のジャングルの渓谷に逃げ込んだときにたまたま断崖に繊細な装飾が施された窓のようなものを見つけたことから発見されたそうだ、まるで、インディ・ジョーンズのような話である。ここの開窟年代は前期と後期に分けられ前期は紀元前1世紀からご世紀にかけて、後期は5世紀後半から6世紀頃とされている。後期のものの石窟寺院の中には、色鮮やかな壁画が残っているものもあった。そしてエローラに行ってもらった。 エローラは、繊細な彫刻が施された外壁をもつ巨大寺院が岩山を掘りこんで作られた圧倒的存在感をもつすごい石窟寺院だ。今まで観たことのある遺跡のなかでも、トップクラスの存在感だった。エジプトのピラミッドやカルナック神殿、ヨルダンのぺトラ(映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」に聖杯の隠された遺跡として登場する)そしてエローラ、これらの遺跡は、死ぬまでに一度は訪れる価値のあるところだと思う。タクシーで午後4時半すぎに空港についた。17時30分発のアウランガーバード発ムンバイ行きの飛行機にのり、ムンバイで乗り継いでデリーに行き、20時25分発の大阪行きのインド航空314便に、かろうじて乗り、2000年1月26日に帰国した。 時間通りにいくことを期待できないインドでのこの予定は綱渡りのようなものだったがうまくいった。 冒頭で旅はスポーツだと書いた。正確には、一人旅はスポーツ競技のようなものだと思う。できるだけ情報を収取し、限られた時間のなかで、行くべきところを選択し、状況によって行き先を変更する。駅の構内で寝たり、野宿も余儀なくされることもある。 たまに懐がゆるせば超高級ホテルにも泊まる。お金をつかうにも、時間を遣うにしても、交渉するにしても絶妙なバランス感覚を必要とする。悪い状況に陥ったら、もっとも悪い状況を考え、最悪よりはましと思うようにして気を取り直し、最善策を考える。開業前の半年の間に、開業したら2度と行けなくなるかもしれないと思い、南アフリカ、ケニア、ボツワナ、ジンバブエ、アメリカのユタ、アリゾナ、ニューメキシコの国立公園やサンタフェの街、ミヤンマー、ハワイホノルルフルマラソン参加して、最後にこのインド旅行をした。帰国後開業までは1カ月しかなく、ばたばたしてしまったが、この開業直前の半年間に、行きたかった、そして2度と行けそうにもないところを中心に旅をした。アメリカには子供を連れていったが、それ以外はバックパック一人旅だった。また行きますか?と問われると、もうすぐ55歳になる今では精神的体力的に難しいと思う。だからこそ、知的好奇心旺盛で体力的にパワーがあり、与えられた条件の中で、行くことができた時期に行っておいてよかったと思っている。 与えられる条件というのは、自分の思いで大きく変わってくるものである。 ひとによっては、そんなしんどい思いをして、汚らしいところに行って何が面白いのかと思うだろう。私の場合は、なんでも見てみたい、行ってみたいというのが、しんどいとか大変そうと思う気持ちよりはるかに勝っていた。 既成概念にとらわれず、自分が生をうけたこの星の色々な違う世界や価値観をあるがままに体験したい
と思った。いつか必ず行きたいと思っても行けなくなる日が来る、それでは手遅れだと思った。 そして、開業後13年たった今顧みて、旅することで培われたものが、事業を行ううえでも非常に役立ってきたと確信している。
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